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祐子内親王家紀伊
(ゆうしないしんのうけのきい。11世紀後半、生没年未詳)
平経方(たいらのつねかた)の娘で、夫は紀伊守を務めて出家した素意法師(そいほうし:俗名は藤原重経(しげつね))の妻または妹という説があります。紀伊の名前は、藤原重経が紀伊守だったところからきています。平安時代後半に活躍した女流歌人です。母親は後朱雀(ごすじゃく)天皇の第一皇女・祐子(ゆうし)内親王に仕えた小弁(こべん)で、紀伊自らも祐子内親王家に仕え、一宮紀伊(いちのみやきい)と呼ばれました。多くの歌合に参加した名高い歌人です。堀河天皇のとき、74番・源俊頼(としより)、源国信(くにざね)らが中心に、当時の有力歌人に詠進させた百題による百首歌(組題百首)が「堀河百首」ですが、紀伊は16人の作者の中の一人に選ばれました。「後拾遺集」以下の勅撰集に31首が入集しています。女房三十六歌仙の一人です。 |
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●「朝まだき 霞なこめそ 山桜 たづね行くまの よそめにも見む」(朝早くから霞よ立ちこめてないでおくれ。山の桜を目指して出掛けてゆくのだから、道々、遠目からも眺めて行きたい。「詞花集」)
●「うらむなよ 影見えがたき 夕月夜(ゆふづくよ) おぼろけならぬ 雲間まつ身ぞ」(恨まないで下さい。今日の夕方は、月の見えにくい朧月夜、雲が晴れるまで待たなくてはならない我が身です。「金葉集」ある人が夕方に訪問しようと言って来たので、差しさわりがあると遠回しに断った歌です。)
●「恋しさに たへて命の あらばこそ あはれをかけむ 折も待ちみめ」(この恋しさに耐えて、生き延びることができたなら、その時は、あの人が情けをかけてくれるのを待ってみよう。でも、今は辛くてとても生きていられそうにない。「玉葉集」)
●「真木の戸に あけながらにて 明けぬれば 頼めぬ月の 影ぞ洩りこし」(家の戸口を開けておいたのに、一夜待ち明かして、あなたは来ずに月影だけがもれてきました。「新千載集」後二条関白師通が内大臣の時、紀伊に妻戸(つまど)を開けておいてほしいと言って来たのに、来なかった時の恨みの歌です。)
●「君見ねば 朝日の山の もみぢ葉も よるの錦の ここちこそすれ」(恋人の橘俊綱が、朝日山の紅葉は今が盛りでしょうとのみ、たよりを送ってきたので、あなたがご覧にならなければ、そして、あなたがこの頃お見えにならないので、盛りの紅葉も夜の錦だと詠んでいます。) |
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●母と同じく祐子内親王家に出仕したこと以外は、伝記的な話はほとんど知られていません。歌人としての活動は、永久元年(1113年)「少納言定通歌合」への出詠まで確認されています。「音にきく」の歌合からさらに10年余り、80歳を過ぎても現役歌人であったようです。 |
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●堀河天皇によって催された堀川院艶書合で詠まれた歌です。「艶書合(えんしょあわせ)」とは恋文や恋の歌を出し合って優劣を競う競技です。堀河天皇の里内裏跡は堀川通り二条下る東側にあります。道路の向かい側に二条城が見えます。 |
●藤原摂関家の邸宅・高陽院(かやのいん)で開かれた高陽院七番歌合に、92番・二条院讃岐、67番・周防内侍とともに参加しています。現在は「高陽院ハイツ」というマンションになり、石田大社ビル前に説明板があります。 |
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●掛詞や縁語を巧みに使った「音にきく」の歌合からさらに10年余り、80歳を過ぎても現役歌人であったようです。 |
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「音に聞く」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。 |
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