プロフィール 藤原道信朝臣

藤原道信朝臣
(ふじわらのみちのぶあそん。972年~994年)

 法住寺太政大臣・藤原為光(ためみつ)の3男で、母は45番・藤原伊尹(これただ)の娘です。父の死後、叔父の関白藤原兼家(かねいえ)に愛されて養子となり、若くして従四位上・左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)にまで昇進しました。権力争いをした異母の兄たちとは対照的に、和歌の才能にも恵まれた美しい貴公子であったようです。そのうえ、性格も純粋で素晴らしく、55番・藤原公任、51番・藤原実方、信方らと親交が深く、公任とは互いの歌稿(かこう:歌の原稿、下書き)を形見として贈り合った仲でした。また、実方は位も同じ四位であり、友情があつかったようです。二人で舞人をつとめたり、宿直の部屋に泊まりこんだりしたことが、家集の「道信朝臣集」に記されています。道信の和歌は56番・和泉式部などに影響を与えました。21歳の時に実父・為光を亡くしたショックは大きく、8首の挽歌(ばんか:死を悼む歌)を残しています。その喪が明けた正暦5年(994年)正月には従四位上に叙されなから、その年の7月11日に当時流行していた天然痘により、23歳の若さで人々に惜しまれながら亡くなりました。「拾遺和歌集」(2首)以下の勅撰和歌集に49首が入首していいます。
代表的な和歌
●「散りのこる 花もやある とうち群れて 深山(みやま)がくれを 尋ねてしがな」(もしや散り残っている花もあるかと、皆で連れ立って、深山の人目につかないところを探し廻りたいものだ。「新古今集」春の夕方、藤原実方に贈った歌です。)
●「須磨のあまの 波かけ衣 よそにのみ きくは我が身に なりにけるかな」(須磨の海人のいつも波で濡れている衣、今まで他人事として聞いていたことが我が身の上のことになってしまい、始終恋に涙してばかりいる。「新古今集」)
●「限りあれば 今日ぬぎすてつ 藤衣(ふじごろも:喪服) はてなきものは 涙なりけり」(喪が明けたので喪服は脱ぎましたが、涙はいつまでもとまりません。「拾遺集」21歳で実父の為光を亡くしたショックは大きく、この歌は父の一周忌の歌です。悲しみの深さを表す名歌と賞賛されています。この歌を詠んだ翌年に道信は父のもとに旅立ったことになります。)
●「嬉しきは いかばかりかは おもふらむ 憂きは身にしむ 心地こそすれ」(恋を得た人はどんなに嬉しいでしょうね。それにひきかえ、私の辛さは身にしむ心地がいたします。「詞花集」道信は婉子女王(村上帝の孫娘)に恋をしますが、藤原実資に敗れて、婉子女王は実資の妻となりました。実資は道信より15歳も年上で社会的地位もあり、大資産家。道長も一目をおいた人物でした。道信はうちひしがれて、せめてもと婉子女王へ歌を贈りました。若者らしい率直な歌です。「大鏡」より)
●「朝顔を 何はかなしと 思ひけむ 人をも花は さこそ見るらめ」(朝顔の花をどうしてはかないなどと思ったのだろう。人のことだって、花ははかないと見ているだろうに。「拾遺集」早朝咲いて陽が高くなるとしぼんでしまう朝顔を見て詠んだ歌です。「今昔物語集」には、殿上の間で、大勢の人々とこの世のはかなさについて話し合っているときに詠んだと記されています。若くして亡くなった道信の人生に重ね合わさて鑑賞されてきた歌です。)
●「秋果(は)つる さ夜更(よふ)け方の 月見れば 袖(そで)も残らず 露(つゆ)ぞ置きける」(晩秋の夜更けの満月をながめていると、秋を惜しむ涙が露となって袖一面に置いたことだ。「新古今集」9月十五夜の月をしみじみ見入り明かして詠んだ歌です。秋の最後の満月を惜しむ気持ちを、庭一面の露で暗示しています。)
エピソード
●若くして亡くなった道信の理想化がすすみ、「今昔物語」「俊頼髄脳」「十訓抄」「無名草子」などに多くの説話が伝えられています。宮中の清涼殿につどう女房たちに、歌と山吹の花をさし入れ、いあわせた61番・伊勢大輔が即興で歌を詠んだというエピソードや、9番・小野小町の髑髏(どくろ)に遭う話など、年代が合わずフィクションであることは確かですが、早くして亡くなった道信への思いが、色好みの道信像を生み出したのでしょう。
●51番・藤原実方は道信より13才ほど年上ですが、2人は近衛中将の同僚で公私にわたり親しい間柄でした。いっしょに宿直をした翌朝、実方にこんなしゃれた戯れ歌を贈っています。「妹と寝て おきゆく朝の 道よりも なかなか物の 思はしきかな」(彼女と夜を共にして別れる朝よりも、今朝の方が名残惜しくて、かえって物思いは深いことですよ」「千載集」)その実方が、あまりにも早すぎる友の死を悼み詠んだ歌が残っています。詞書に「道信の朝臣、もろともに紅葉見むなど契りて侍りけるに、かの人身まかりての秋、よみ侍りける」とあります。「見むといひし 人ははかなく 消えにしを ひとり露けき 秋の花かな」(いっしょに紅葉見物に行こうと言い交わした人ははかなくこの世から消えてしまったので、自分一人露に濡れた秋の花を見て涙に暮れていることですよ。「後拾遺集」)家集「道信集」には、実方との贈答歌が14首も収められています。
●「大鏡」には「いみじき和歌の上手にて、心にくき人に言はれ給ひし」と記されていて、評判をとるほど歌の才能に恵まれていました。「心にくし」とは、自分がとても及ばない優れた相手をねたみ、強い関心を示す様子を表します。「今昔物語集」巻24には、「形ち有様より始て、心ばへいとをかしくて、和歌をなむめでたくよみける」(容姿・人柄をはじめ、風雅な心の持ち主で、和歌をたいそう上手におよみになった)とあり、教養や立ち居振る舞いがすばらしく、容姿も優れた貴公子であったことがわかります。「今昔物語集」には道信の和歌20首を選んで、詠われた事情を記しています。朝顔、梅、菊、藤袴、紅葉など、季節の花々に心を寄せる優しいまなざしが感じられます。
●51番・実方とは位も同じ四位であり、友情があつかったようです。二人で舞人をつとめたり、宿直の部屋に泊まりこんだりしたことが家集に記されています。 ●当時流行していた天然痘により、道信は23歳の若さで人々に惜しまれながら亡くなりました。親友の実方と、花見や紅葉狩りを楽しんだことがわかる歌が残っています。
●「散りのこる 花もやある とうち群れて 深山(みやま)がくれを 尋ねてしがな」(もしや散り残っている花もあるかと、皆で連れ立って、深山の人目につかないところを探し廻りたいものだ。 ●「朝顔を 何はかなしと 思ひけむ 人をも花は さこそ見るらめ」(朝顔の花をどうしてはかないなどと思ったのだろう。人のことだって、花ははかないと見ているだろうに。)「拾遺集」の歌です。