プロフィール 前大僧正行尊

前大僧正行尊
(さきのだいそうじょうぎょうそん。1055年~1135年)

  敦明(あつあきら)親王の孫で参議従二位源基平(もとひら)の息子です。10歳で父を亡くし12歳で出家、園城寺(おんじょうじ:大津にある三井寺)で密教を学んだ後、17歳の頃から大峰や熊野など諸国の霊場ををめぐって約18年間厳しい修行を行いました。修験道(しゅげんどう)の行者はいわゆる山伏(やまぶし)で、奈良時代に役小角(えんのおづの)が開いた仏教の一派です。修行を積んで呪力(じゅりょく)を体得し、悪霊を退散させたり憑き物を祈祷で払って病気を治したりと、さまざまな霊験をあらたかにします。1107年に鳥羽天皇の即位とともに護持僧(ごじそう)に選ばれ、その後歴代の天皇の病気を祈祷で治したりして、「験力無双(げんとくむそう)」と言われ、尊敬されました。後に園城寺長吏(ちょうり)、天王寺別当などを経て、比叡山延暦寺の最高位である天台座主(てんだいざす)に任じられ、天治2年(1125)、71歳で大僧正となりました。命を捨てるような厳しい修行に耐えながら、人の心の弱さや孤独を隠さず素直に歌にしました。主に修行時代の歌を集めた家集「行尊大僧正集」があります。歌人としても有名でしたが、管弦や書道にも秀でていました。三井寺で重い病にふし、81歳で亡くなりました。出家の身でありながら、花を愛し月に涙した生涯は、86番・西行法師に大きな影響を与えました。
代表的な和歌
●「あはれとて はぐくみ立てし いにしへは 世を背けとも 思はざりけん」(私をかわいいと思って育ててくださった昔は、世を捨てて出家せよともお思いにならなかったことでしょう。「新古今集」大峰での厳しい修行に入ろうとして、愛情深く養育してくれた乳母の心情を思って詠み贈った歌です。)
●「月影ぞ むかしの友に まさりける しらぬ道にも 尋ねきにけり」(月の光は、昔からの親友にもまさって情に篤いなあ。どこへ行くとも告げていないのに、知らない山道を尋ねて私のもとにやって来てくれた。「玉葉集」)
●「草の庵 なに露けしと 思ひけむ 漏らぬ岩屋も 袖はぬれけり」(何をまた、草の庵だけが露っぽいものだと思っていたのだろう。雨漏りのしない頑丈な岩屋でも、修行の辛さに流す涙で私の袖は濡れるのだなあ。「金葉集」この岩屋は大峰山脈の絶壁にある笙(しょう)の窟(いわや)で、最も厳しい修行場でした。)
●「見し人は ひとりわが身に そはねども おくれぬものは 涙なりけり」(一緒にいた人たちは皆去り、一人として私に連れ添う人はいなくなったけれども、そんな時も遅れずについてくるものは、涙だけだったよ。「金葉集」修行に熱心なあまり行尊だけが長居し、大峰の同行の修行者は一人また一人と去って行ってしまいました。心細さに詠んだと詞書にあります。)他にも、、厳しい修行の様子がうかがえる歌が何首もあります。
●「草まくら 苔の衣の 露けさに 秋の深さも 知られぬるかな」
●「狩らねども まだ山なれぬ 山伏しぞ あはれともおもへ 群れ立てる鹿」
●「木の間もる 片われ月の ほのかにも 誰かわが身を 思ひ出づべき」 
エピソード
●「古今著聞集」は「平等院僧正行尊霊験の事」の一章をもうけ、不思議な出来事の数々を記しています。大峰の神仙宿で35日間修行した時には、大雨のため庵の中は川のようになり、身を置く場所もなくなり、命を落とすところを、童子が現れて助け出し、岩に寝た時には枕を与え、舟で川を渡してくれたといいます。また、母が根本中堂の薬師如来の夢を見て行尊を身ごもった話、養母が重病となった時、行尊が加持した柑子(こうじ)を食べるとたちまち平癒(へいゆ)した話もあります。養母はひと目行尊に会いたいから京に帰るように促がしますが、大峰で修行中だから帰れないと断り、使いの者に加持した柑子を渡したのです。また、歴史物語の「今鏡」には、行尊がもののけを退治した話が記されています。
●「本朝高僧伝」(日本の高僧1600余人の伝記を収めた江戸時代の仏教書)も、行尊の法験を伝えています。摂政藤原 忠実(ふじわら の ただざね)の皮膚病を呪文によって治し、千手経(せんじゅきょう)を唱え、ひざに枕させただけで熱病を治したと記されています。
●行尊は病のため三井寺で亡くなりましたが、「京の僧坊に植えた八重紅梅が咲く頃だ、見たいなあ」とつぶやきました。弟子たちが使者を遣って八重紅梅の花を折り取らせ、臨終の床の行尊に見せると、この歌を詠んで亡くなったそうです。「この世には 又もあふまじ 梅の花 ちりぢりならん ことぞかなしき」(この世で再び梅の花を見ることはないだろう。そのように、おまえたちにも二度と出逢うことはないのだ。そしていずれ花が散ってしまうように、愛すべき弟子たちも散り散りに別れてしまうのだろう。それが定めだとしても、やはり悲しいよ。「詞花集」)
●滋賀県大津市の三井寺は、行尊が12歳で出家し、81歳で病のため亡くなった寺です。壬申の乱で、1番・天智天皇の弟・天武天皇に敗れた大友皇子(天智天皇の子)を弔うために創建されました。天智・天武・持統天皇の誕生時に産湯に用いられた井戸のある寺から「御井の寺」(三井寺)と呼ばれています。 ●三井寺内の円満院門跡庭園に「もろともに」の歌碑があります。行尊は厳しい修行を積み、宗門のトップ・天台座主にまで昇りつめましたが、人の孤独や弱さを素直に歌にした歌人でした。
●三井寺文化財収納庫には記念撮影用に行尊の大型絵札があり、記念撮影ができます。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「もろともに」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。