プロフィール 右大将道綱母

右大将道綱母
(うだいしょうみちつなのはは。937年頃~995年頃)

 陸奥守、藤原倫寧(ふじわらのともやす)の娘。生涯を受領(ずりょう:国司)で終わった中流貴族の娘であるため、本名は伝わっていません。「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく:源氏、平氏、藤原氏などの諸氏の系図)」に「本朝第一美人三人内也」とあり、日本三美人の一人に選ばれるほどの美しさでした。また、「大鏡」には「きはめたる和歌の上手」(極めつけの和歌の名人)とあり、歌の才能にも恵まれていました。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙に選ばれています。美貌と歌才を兼ね備えた女性であるという評判を聞いて、大臣家の御曹子・藤原兼家から熱心に求婚されたのです。天暦(てんりゃく)8年(954年)、18歳頃に、兼家の第2夫人となり、翌年には藤原道綱(みちつな)を生んだので、道綱母と呼ばれています。宮仕えの経験はなく、生涯を家庭人として送ったので、歌合の詠歌は少なく、家集「傳大納言母上集」「道綱の母集」に約50首が収められています。有能な政治家として、のちに従一位摂政関白太政大臣となった兼家ですが、多情な人だったようで多くの妻がいたため、道綱母が幸せを感じる時間は短かかったといいます。(兼家と正妻との間には、藤原道隆、道長といった息子がいました。道長は摂関政治の最盛期を築いた人物です。)兼家との交際から21年間(954年~974年)にわたる半生を綴ったのが「蜻蛉(かげろう)日記」です。肉親への愛とともに兼家への反発、他の妻への嫉妬などを大胆に描き、女性による初の日記文学として高い評価を受けています。57番・紫式部の「源氏物語」や62番・清少納言の「枕草子」に先がけた日記は、後の多くの日記や物語文学にも大きな影響を与えたとされています。「蜻蛉日記」は没年より約20年前、38歳の大晦日を最後に筆が途絶えていて、晩年の様子は不明ですが、60歳前後で亡くなったようです。
代表的な和歌
●「きえかへり 露もまだひぬ 袖のうへに 今朝はしぐるる 空もわりなし」(消え入るような思いで夜を過ごし、涙もまだ乾かない袖の上に、今朝は時雨を降らせるとは、空もやるせないことです。「蜻蛉日記」藤原兼家との結婚は954年秋。作者は18、9歳、夫は26歳でした。新婚間もない9月末、兼家が二夜続けて来ないことがあり、手紙ばかりが送られて来たのに対し、返事とした歌です。晩秋の朝方から降り始めた時雨にたくして、泣きぬれたわが身の心細さを訴えています。)
●「くもりよの 月とわが身の ゆくすゑの おぼつかなさは いづれまされり」(曇った夜空の月と、我が身の行末と、頼りなさはどちらがまさっているのでしょう。「蜻蛉日記」昔仲睦まじかった頃が思い出されて詠んだ歌です。将来の不安を夫に訴えていますが、作者は28歳前後です。)
●「ふる雨の あしともおつる 涙かな こまかに物を 思ひくだけば」(雨脚のように絶えず流れ落ちる涙であるよ。くよくよと物を思っていると。「蜻蛉日記」作者35歳前後。出家して山に入ることを思い、涙を止めることができないのです。)
●「もろごゑに なくべきものを 鶯(うぐいす)は むつきともまだ しらずやあるらむ」(声を合わせて泣きたいのに、鶯は正月だとまだ知らずにいるのだろうか。「蜻蛉日記」974年正月、賀茂参詣の折。比叡山の方を眺めるうち、通いが絶えた兼家を思い、作者の涙はせきを切ります。作者38歳頃。日記の記事はこの年12月でとだえます。)
●「都人 ねで待つらめや ほととぎす 今ぞ山べを なきてすぐなる」(都の人は寝ずに待っているのだろうか。時鳥は、今まさに山辺を啼きながら過ぎてゆくようだ。「道綱母集」花山天皇主催内裏歌合に少将道綱の作として出ています。作者が息子道綱のために代作したものと思われますが、家集の詞書からすると屏風歌です。能因法師によって、ほととぎすを歌材にした秀歌5首のうちの1首に選ばれ称賛されています。)
エピソード
●「蜻蛉日記」の序文には、「天下(てんげ)の人の品高きやと問はむためしにもせよかし」(この上ない高い身分の人との結婚生活はどのようなものか、その答えの一例として)と執筆の動機を記しています。兼家の最初の求婚の歌は「音にのみ 聞けばかなしな ほととぎす ことかたらはむと 思ふ心あり」(あなたのすばらしい評判をうわさとして聞くだけでお逢いできないのはせつないばかりです。親しくお話ししたいと思っています。)というものでした。この時兼家は26歳頃と思われます。筆跡も無造作でつたなく、優しいムードのない求愛の仕方に、彼女はとまどったようです。平安時代の通い婚は、女性が年をとって男が通って来なくなれば、生活費もままならない厳しいものでした。他の女性に心が移った夫との関係に疲れ果て、息子を連れて西山にある寺にこもった話も記されています。平安時代に生きる女性の苦労や悩みがひしひしと伝わってきます。
田山花袋の小説「道綱の母」には、平安時代に生きた女性の感情がみずみずしく描かれています。「蜻蛉日記」の現代語訳もいくつか出版されています。
●滋賀県大津市にある石山寺は平安時代に最も信仰の厚かった寺で、琵琶湖から流れ出る瀬田川のほとりに位置しています。 ●「蜻蛉日記」には道綱母が石山詣に出かけた様子が描かれています。都から明け方に徒歩で出発し、逢坂の関を越えて打出(うちいで)の浜から船に乗り、夕方に石山寺に着くまでの情景が見事に表現されています。
●また、琵琶湖の東岸にある唐崎にも出かけています。罪やけがれをはらうところとして貴族たちが訪れた名勝です。 ●他の女性に心が移った夫との関係に疲れ果て、息子の道綱を連れて西山にある般若寺(はんにゃじ)にこもった話も「蜻蛉(かげろう)日記」に記されています。