プロフィール 鎌倉右大臣

鎌倉右大臣

(かまくらのうだいじん。1192年~1219年)


 鎌倉幕府を開いた源頼朝の二男、母は北条政子。源実朝(みなもとのさねとも)のことです。幼名を千幡(せんまん)いい、頼朝が鎌倉幕府を開いた年に生まれました。父は6歳の時に亡くなり、後を継いだ兄の頼家が政争で追放されると、建仁3年(1203)9月、11歳で3代鎌倉幕府将軍となり実朝と改名しました。翌年、兄は23歳で修善寺にて刺殺されています。武家の家に生まれながら、優しい人柄に繊細で鋭い感性を持つ青年でした。政治の実権はすでに北条氏にある状態で、実朝の情熱は文化面に向かいました。京都の宮廷文化に強くあこがれ、和歌と蹴鞠を特に好みました。14歳の時に97番・藤原定家から「新古今集」を贈られたのをきっかけに、手紙でやり取りをしながら和歌の指導を受けました。17歳の時には、75番・基俊筆の「古今集」の献上があり、実朝は「末代までの重宝」と感動しています。定家は歌論書「近代秀歌」や「万葉集」などを送り、詠歌の基本を熱心に指導したといいます。実朝の歌は、万葉時代に戻ったような雄壮でのびのびとした大きさが魅力です。後世、高く評価されました。22歳で家集「金槐和歌集」をまとめ、定家に献上しています。自分の代で源氏が滅びることを予見して、家名を後世に残すために昇進を強く望んだと言います。しかし、25、26歳の頃には、政治的な緊張から歌が詠めなくなりました。建保6年(1218)12月、27歳で右大臣になったとはいえ、実朝は名ばかりの将軍でした。翌年正月17日、右大臣拝賀の式に訪れた鶴岡八幡宮で、甥(おい)の公暁(くぎょう)に暗殺されました。28歳でした。公暁は実朝の兄・頼家の息子で、実朝暗殺後に殺害されています。実朝には子がなかったので、これによって源氏将軍の血筋は断絶しました。
代表的な和歌
●「大海(おほうみ)の 磯(いそ)もとどろに 寄する波 割れて砕けて 裂けて散るかも」(大海原(おおうなばら)の磯をとどろかせるほどに打ち寄せる波は、割れて、砕けて、裂けて散っているなあ。)
●「玉くしげ 箱根のみ海 けけれあれや ふた国かけて 中にたゆたふ」(箱根の湖は情愛があるのか、相模と駿河と二つの国にまたがって、その間でゆらゆら漂っている。芦ノ湖は現在も神奈川・静岡の県境近くに位置しています。)
●「箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」(箱根路を越えて来ると、うち出づるところは伊豆の海、その沖の小島に波の寄せるのが見える。「続後撰集」伊豆山・箱根権現参詣の折の作です。)
●「咲きしより かねてぞをしき 梅の花 ちりのわかれは 我が身と思へば」(咲いた時からもう散る時を考え、愛惜される梅の花よ、散って別れるのは、私の命だと思えば。実朝の晩年の作。自らの死を予感しているかのような歌が少なくありません。)
●「ほととぎす 聞けどもあかず 橘(たちばな)の 花ちる里の 五月雨のころ」(ほととぎすの声はいくら聞いても飽きない。橘の花が散る、五月雨の降る頃。「新後撰集」)
●「春ふかみ 花ちりかかる 山の井は ふるき清水に かはづなくなり」(春深く、花の散りかかる山の井では、永い時を経た清水に蛙が鳴いている。)
●「おほかたに 物思ふとしも なかりけり ただ我がための 秋の夕暮」(世間一般の物思いなどではない。ただ私を悲しがらせるために訪れた秋の夕暮よ。)
●「わたのはら 八重のしほぢに とぶ雁の つばさのなみに 秋風ぞ吹く」(大海原、その限りない潮流の上を飛ぶ、雁の編隊、その翼の波に秋風が吹きつけている。「新勅撰集」)
●「かくてのみ ありてはかなき 世の中を 憂しとやいはむ あはれとやいはむ」(このようにばかり、生きていてもはかない世の中を、辛いと言おうか、いとしいと言おうか。)
●「物いはぬ 四方(よもの)けだもの すらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ」(物言わぬ、どこにもいる獣でさえも、いとしいことよ、親が子を思うさまは。)
エピソード

●実朝は鎌倉という地方にありながら、宮廷歌壇との交流がかなりありました。「吾妻鏡」によると、実朝17歳の年には、歌30首を選んで定家に批評を請い、その返事に添えて定家の歌論書「近代秀歌」を贈られ、その後も、建暦元年(1211)には「新古今集」の撰者の一人、94番・藤原雅経の推挙で、鴨長明と会っています。熱心に作歌活動を続けましたが、「吾妻鏡」には亡霊の夢を見た話、地震などの異変、暗殺された当日には、出立前に不吉な歌を詠んだことなど、悲劇の結末を印象付ける内容が多く記されています。当日出立の際の「変異」を語る条に引用された歌です。「出でていなば 主なき宿と 成りぬとも 軒端の梅よ 春なわするな」(私が出て行ったなら、たとえ主人のいない家となってしまうとしても、軒端の梅よ、春を忘れずに咲いてくれ。)
●正岡子規は「竹乃里歌」では「人丸ののちの歌よみは誰かあらむ征夷大将軍みなもとの実朝」、「歌よみに与ふる書」では「…あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候。」と高く評価しています。
●実朝が暗殺された鎌倉の鶴岡八幡宮は、初詣の参拝客数が全国でベスト5に入る有名な寺です。雪の1月27日、甥の公暁が大銀杏に隠れて、石段を降りる実朝を襲ったと伝えられています。 ●境内の鎌倉国宝館前には、「山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」の歌碑、流鏑馬馬場に植樹された「実朝桜」の横には「風さわぐ をちの外山に 雲晴れて 桜にくもる 春の夜の月」の歌碑があります。
●14歳の時に97番・藤原定家から「新古今集」を贈られたのをきっかけに、手紙でやり取りをしながら和歌の指導を受けました ●実朝は、元久元年(1204年)12月、京より坊門信子(ぼうもんのぶこ)を正室に迎えました。初め西八条に創建した寺は、信子の法名「本覚尼」から本覚寺と名付けられて、本塩竈町にあります。