プロフィール 従二位家隆
従二位家隆
(じゅにいいえたか。1158年~1237年


  藤原家隆(ふじわらのいえたか)のこと。権中納言だった藤原光隆(みつたか)の2男です。若い頃87番・寂蓮法師(じゃくれんほうし)の家に婿として入り、83番・藤原俊成に入門して歌を学びました。家隆より4歳年下の俊成の息子、97番・定家とは、お互いの歌を認め合うよきライバルとして、終生変わらぬ友だちでした。30歳の時には定家と「閑居百首」を詠み合っています。後鳥羽院歌壇の歌合や歌会に参加して、建久4年(1193)、91番・九条良経の「六百番歌合」の頃から名声が高くなりました。99番・後鳥羽院の信任が厚く、「新古今集」の撰者の一人に任じられ、従二位宮内卿(くないきょう)にまで昇進しました。京都の西、壬生(みぶ)のあたりに住んでいたので「壬生二品(みぶのにほん)」と呼ばれていました。温厚で誠実な人柄で、官位にもあまり執着がなかったそうです。承久の乱(1221)後も、隠岐に流罪となった後鳥羽院に対する忠誠心は変わりませんでした。定家の技巧的な歌風とは対照的で、わかりやすい内容を、素直にのびやかに詠む歌風でした。特に40歳代以後の活躍はめざましく、80歳で亡くなるまで生涯に6万首(現存するものは3千首ほど)もの歌を詠みました。定家が多くの弟子を指導し、多くの著作を残したのに対して、弟子を持たず著作もありません。晩年、病により出家し、大阪四天王寺の西側に移り住みました。念仏三昧(ざんまい)の日々を送り、臨終の前日には7首の歌を詠み、合掌正座して、静かに息を引き取ったと伝えられています。(辞世の歌「契りあれば 難波の里に 移り来て 波の入り日を 拝みつるかな」)勅撰集への入集は273首にのぼります。定家が撰者である「新勅撰集」への入集は最多です。家集に「壬二(みに)集」があります。
代表的な和歌
●「霞立つ 末の松山 ほのぼのと 波にはなるる 横雲の空」(霞の立っている末の松山がほんのり眺められ、また、横雲が波から離れていくのがほんのりと眺められる夜明けの空よ。「新古今集」題詠「春の曙(あけぼの))
●「明けぬるか 衣手寒し 菅原(すがはら)や 伏見(ふしみ)の里の 秋の初風」(夜が明けてしまったのであろうか、袖のあたりが何となく寒い、菅原の伏見の里に吹く初秋の風よ。「新古今集」伏見の里は奈良市菅原町のあたりで、平安時代から荒れた里として歌に詠まれていました。旅寝をして迎えた立秋の夜明けのわびしい様子を詠っています。)
●「志賀の浦や 遠ざかりゆく 波間より 氷りて出づる 有明の月」(志賀の浦では岸辺から凍り、遠ざかりゆく波の間から、氷のような冷たい光を放って昇る有明の月よ。「新古今集」歌合の題は「湖上の冬月」。志賀の浦は、大津市付近の琵琶湖畔です。)
●「明けばまた 越ゆべき山の 峰(みね)なれや 空行く月の 末(すゑ)の白雲」(夜が明けたならばまた越えて行かなければならない山の峰なのであろうか。空を行く月がたどり着くかなた、あの白雲がかかっている所は。「新古今集」
●「思ひ入る 身は深草の 秋の露(つゆ) 頼めし末(すゑ)や 木枯しの風」(恋に深く心を沈めた私の身は、深草に宿る秋の露のようにはかなく、あの人が約束してあてにさせた果ては、露が木枯しの風に吹き散らされるように消えることか。「新古今集」「蜻蛉日記」の歌や「伊勢物語」の深草の女をふまえた歌です。木枯しに男の心変わりを暗示し、待つ女の心を詠んでいます。)
●「下紅葉 かつ散る山の 夕時雨 ぬれてやひとり 鹿の鳴くらむ」(黄葉した萩の下葉が次第に散る山の夕時雨にぬれて、妻を恋う鹿はひとり鳴いているのだろうか。「新古今集」題は「夕べの鹿」。後鳥羽院の命により、「新古今集」巻五巻頭に置かれることになった歌です。)
●「さてもなほ 訪(と)はれぬ秋の ゆふは山 雲吹く風も 峰(みね)に見ゆらむ」(それでもやはり、あなたは訪れてくれない秋の夕暮れの、ゆふは山よ。雲を吹き払う風の様子も峰に見えていることでしょう。「新古今集」心の離れた男を恨む女の心を詠んでいます。)
エピソード
●「後鳥羽院御口伝」で99番・後鳥羽院は家隆を高く評価していて「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。歌になりかへたるさまに、かひがひしく秀歌ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心も珍しく見ゆ」とほめています。大きな気がまえがあり、誰よりも勝っている、当代一だと言っています。家隆は後鳥羽院が隠岐に配流になった後も、手紙を送りつづけ、その忠誠心は終生変わらなかったそうです。院ばかりでなく、院の子どもや孫とも歌を介して交流があったといいます。後鳥羽院が企画した「遠島御歌合(えんとうおんうたあわせ)」に、自作の歌をおくっています。後鳥羽院からは「隠岐本新古今集」(隠岐で改めて1600首を撰び直した)が家隆に送られています。
●「源家長日記」によると、家隆が49歳で宮内卿(くないきょう:宮内省の長)に昇進した時、家長が祝いの歌を贈ったら本人が慌てたといいます。自分と同名の人が宮内卿になったと思い込んでいたそうです。欲がなく、心によこしまなところがない人でした。
●「十訓抄」には、和歌の名人として定家と家隆が双璧(そうへき)といわれ、誰一人として2人には及ばなかったと記され、次のような説話が残されています。91番・九条良経が「当代一の歌人を誰と思うか」と尋ねた時、家隆は「いづれもわき難く(どの方にも優劣のつけようがございません)」と直接答えず、強く問われると97番・定家の歌を記した畳紙(たとうがみ:歌の草稿などに使うため畳んで懐に入れる紙)を落として立ち去ったと書かれています。定家もまた同じように問われると、さりげなく家隆の歌をつぶやいたそうです。
●家隆の歌風については「けだかくやさしく艶なるさま」(「続歌仙落書」) とか、「詞利(き)きて颯々(さつさつ)としたる風骨を詠まれし也」(「正徹物語」)と評されています。気品高い平明清澄な作風という意味でしょうか。
●「古今著聞集」には、 「かの卿(注:家隆)、非重代の身なれども、よみくち、世のおぼえ人にすぐれて、新古今の撰者に加はり、重代の達者定家卿につがひてその名をのこせる、いみじき事なり。まことにや、後鳥羽院はじめて歌の道御沙汰ありける比、後京極殿(注:九条良経)に申し合せまゐらせられける時、かの殿奏せさせ給ひけるは、『家隆は末代の人丸にて候ふなり。彼が歌をまなばせ給ふべし』と申させ給ひける」とあります。代々優れた歌人を出している名門の家柄ではないが、歌は一流で、定家と並び称される。良経は後鳥羽院に「家隆は今の世の柿本人麻呂です。彼の歌を学ばれるのがよろしいでしょう。」と進言したそうです。
●京都嵯峨の常寂光院には、97番・定家や家隆の木造を安置した歌仙祠(かせんし)があります。家隆より4歳年下の定家とは、お互いの歌を認め合うよきライバルとして、終生変わらぬ歌友でした。 ●京都市上京区の家隆山石像寺(かりゅうざんしゃくぞうじ)は釘抜き地蔵として有名です。家隆が出家した寺であり、山号が家隆山となっています。 ●石像寺は87番・寂蓮法師、97番・定家、98番・家隆が住んだ所ともいわれており、境内の墓所に3人の供養塔が並んでいます。
●家隆は晩年、大阪の四天王寺付近の丘に草庵を作り「夕陽庵(せきようあん)」と名付けました。口縄坂(くちなわざか)を上がった南に家隆塚(藤原家隆の墓)があります。 ●家隆塚には、辞世の歌「契りあれば 難波の里に 宿りきて 波の入日を 拝みつるかな」(前世からの縁で難波の里に宿って西海の波の向こうに沈む入日をおがみ、極楽浄土を願うことだなあ。)の歌碑があります。大阪湾に沈む夕陽を愛した家隆は、夕陽に向かって合掌しつつ亡くなったそうです。 ●四天王寺西門の石鳥居は、極楽浄土の入口にあたると信じられ、西の海に沈む夕陽を拝する聖地として有名です。