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皇嘉門院別当
(こうかもんいんべっとう。生没年未詳、12世紀頃)
生没年は不詳ですが、太皇太后宮亮(たいこうたいごうぐうのすけ)源俊隆(としたか)の娘で、77番・崇徳院の皇后(皇嘉門院)聖子(せいし)に仕えた女房でした。女官長にあたる別当は、家政を司る役目です。父の俊隆が何かの別当職にあったことがあり、その頃には出仕したのではといわれています。保元の乱(1156)の後、夫の崇徳院が讃岐に流されたため聖子は出家し、養和元年(1181)に亡くなっています。別当はその頃(1181年)には出家して尼になっていたことが、九条兼実(かねざね)の日記「玉葉(ぎょくよう)」に記されています。皇嘉門院が藤原兼実の異母姉であった縁から、「右大臣兼実家(かねざねけ)歌合」や「兼実家百首」にもたびたび参加しています。治承3年(1179)10月の歌合には75番・基俊、85番・俊恵、87番・寂蓮、源頼政などが参加しています。「新古今集」には一首も採られていませんが、「千載集」以下の勅撰集に9首入集しています。 |
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●「うれしきも つらきも同じ 涙にて 逢ふ夜も袖は なほぞかわかぬ」(嬉しい時も辛い時も、流すのは同じ涙であって、今までは辛くて涙を流してばかりいたけれども、あなたと逢えたこの嬉しい夜にも、私の袖はやはり乾きませんでした。「新勅撰集」題「初逢恋」は初めて思いを遂げた恋のことで、初めての逢瀬に嬉し涙で袖をぬらしたのです。)
●「思ひ川 いはまによどむ 水茎を かきながすにも 袖は濡れけり」(思い川の岩間に淀んでいる水草を払いのけようとすれば、袖は濡れてしまう。そんなふうに、あなたとの仲が淀んでしまったので、思いを手紙に書くにつけ、私の袖は涙で濡れてしまいました。「新勅撰集」)
●「忍び音の 袂(たもと)は色に 出でにけり 心にも似ぬ わが涙かな」(忍び泣く声は袂で抑えたけれども、その袂は血の涙に染まって、思いが色に表れてしまいました。心は恋の辛さを隠そうと必死なのに、心に合わせてくれない私の涙だなあ。「千載集」)
●「帰るさは 面影をのみ 身にそへて 涙にくらす 有明の月」(帰り道は、貴女の面影だけを身に添えて、涙に有明の月も見えなくなりました。「玉葉集」後朝(きぬぎぬ)の歌。「明け方、女のもとから帰った男が、女に贈った歌」という趣向のもとに詠んでいます。)) |
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●別当は当時それなりに名が通っていた歌人ではあったでしょうが、生没年も分からず、逸話も残っていません。「難波江の」の歌も、20番・元良親王の「わびぬれば」や19番・伊勢の「難波潟」と類似していて、特に「わびぬれば」は本歌と考えられます。序詞・掛詞・縁語を使った技巧的な歌であることを、晩年の定家は評価しているようです。 |
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●皇嘉門別当は聖子に仕えた女房でした。聖子の兄・兼実の邸での歌合などで活躍しました。 |
●皇嘉門院というのは崇徳天皇の皇后藤原聖子(せいし)の院号です。女院には宮城(=皇居)の門の名をつける慣習があり、聖子には大内裏の南面にある皇嘉門の名がつけられています。(現在の西ノ京内畑郵便局付近) |
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●皇嘉門別当の歌は、20番・元良親王の「わびぬれば」が本歌と考えられます。 |
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野には、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「難波{江の」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。 |
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