プロフィール 大中臣能宣

大中臣能宣
(おおなかとみのよしのぶ。921年~991年)

 大中臣家は代々伊勢神宮の祭主(神官の長)を務める家柄です。父頼基(よりもと)の後を継ぎ正四位下神祇大副(じんぎのたいふ)になり、祭主となりました。一族は優れた歌人の家系でもあり、父は大変厳しい人でした。能宣の詠んだ歌が気に入らないと、枕を投げつけて怒ったといいます。能宣の息子・輔親(すけちか)、孫の61番・伊勢大輔(いせのたいふ)と、代々にわたって優れた歌人を出し、「重代の歌の家」と呼ばれました。要職にありながら文才にも恵まれ、950年代に、村上天皇の命によって、42番・清原元輔、源順、紀時文(ときぶみ)、坂上望城(もちき)とともに「梨壺(なしつぼ)の五人」として宮中の和歌所に召集されました。「梨壺の五人」は、「万葉集」の訓読や「後撰集」の撰定にあたった和歌の学者たちのことです。和歌所の庭に梨の木があったことからこう呼ばれています。交友関係も広く贈答歌をはじめ、屏風歌や歌合の歌など洗練された歌風で活躍しました。三十六歌仙の一人で、家集に「能宣集」があります。なお、この「御垣守」の歌は「能宣集」にはありません。「古今和歌六帖」に作者未詳歌としてよく似た歌があるので、いつしか能宣作と誤って伝承され、平安後期の「詞花集」に選ばれたのではないかといわれています。
代表的な和歌
●「千歳(ちとせ)まで かぎれる松も 今日よりは 君にひかれて 万代(よろづ)よや経(へ)む」(千年までと寿命が限られる松も、今日からは、あなたに引かれて万年の命を保つでしょう。「拾遺集」宇多天皇の皇子敦実親王が正月初子(はつね)の日、小松を引いて遊ぶ行事にお供した際、その場で詠んだ作。格調高い賀歌として多くの秀歌撰に選ばれて、有名です。)
●「時鳥(ほととぎす) なきつつかへる あしひきの やまと撫子 咲きにけらしも」(ほととぎすが鳴きながら山へ帰って行く、ちょうどその頃、やまと撫子の花が咲いたのだなあ。「能宣集」六月、和歌所のあった梨壺の前の庭園に撫子を植えようと、嵯峨野に繰り出した時の歌です。)
●「かをらずは 折りやまどはむ 長月の 月夜にあへる 白菊の花」(香をたちのぼらせなければ、手折るのに迷ったろうよ。晩秋九月の夜、月の光と一つになった白菊の花を。「能宣集」29番・凡河内躬恒の名歌「心あてに」は霜と白菊の紛らわしさを詠んでいますが、この歌では一面の月光と白菊を取り合わせています。)
●「ゆくすゑの 命もしらぬ 別れぢは けふ逢坂や かぎりなるらむ」(将来の命は知れず、幸運にも今日逢坂の関で再会して、こうして別れるのが、永久の別れなのだろうか。「拾遺集」伊勢神宮に奉仕していた能宣が上京する際、ひそかに逢っていた恋人が東国へ下るのと、逢坂の関でばったり出会いました。その時、女性に贈った歌です。10番・蝉丸の名歌「これやこの」を地で行くような再会であり別離でした。)
●中世の仏教説話集「撰集抄」の中に、女房が「日影ノアルサカツキ」を出して酒を勧めたところ、能宣が即詠して場を盛り上げた逸話が残っています。「有明の こころこそすれ さかつきに 日影もそひて 出でぬと思へば」(有明月(盃)を見るような気分ですねえ。酒盃(月)に朝日の江まで添えてくださるとは)
エピソード
●「袋草紙」にいくつかエピソードが紹介されています。能宣が父頼基に歌の出来を叱られたエピソードは有名です、新年の子(ね)の日に野に出て、小松を引く行事があります。千年続く松の生命力が、引いた人へと受け継がれ長寿が約束されると信じられていました。親王の子の日のお伴をしていた能宣は、入道式部卿宮に、「千歳(ちとせ)まで かぎれる松も 今日よりは 君にひかれて 万代(よろづ)よや経(へ)む」(千年と命が限られている松も、今日は長寿が約束されているご主君に引かれたおかげで、万年までも生きながらえるでしょう。)という見事な賀歌を献じました。この自信作を父に披露したところ、いきなり木製の枕で殴られたのです。「愚か者め、もし帝(みかど)が主催する子の日に招かれて歌を求められた時はどうするつもりだ。この歌よりうまい歌がお前に詠めるのか。秀作は心用意して詠むものだ。」と息子を叱ったということです。ただし、父の仕打ちは、少し度が過ぎていると、能宣に同情する声も平安時代からあったようです。
●大中臣氏は、①父・頼基②49番・能宣③息子・輔親④孫・61番・伊勢大輔⑤康資王母(やすすけおうのはは)⑥安芸君(あきのきみ)と6代続いて歌人を出した家なので「六代相伝の歌人」と呼ばれています。後半の3代は女性歌人です。
●能宣は伊勢神宮(三重県伊勢市)に奉仕し、天禄3年には正四位下神祇大副、翌年には祭主という高い位を得ました。五十鈴川のほとりの皇大神宮(こうたいじんぐう)を内宮(ないくう)といい、天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りしています。 ●伊勢市の中心部、高倉山を背にする豊受大神宮(とようけだいじんぐう)を外宮(げくう)は、豊受大御神とようけのおおみかみをお祀りしています。
●能宣は梨壺の五人の一人です。当時、読み方が困難になっていた「万葉集」の訓読作業を、清少納言の父・元輔や紀貫之の息子・時文らと行った場所が梨壺です。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。「御垣守」の歌碑は、常寂光寺と二尊院の間の長神の杜公園にあります。