プロフィール 柿本人麻呂

柿本人麻呂
(かきのもとひとまろ。不明~709,710年頃?)

  2番・持統天皇、文武天皇に仕えた宮廷歌人で、三十六歌仙の一人。生涯を下級官吏として過ごし、草壁皇子(くさかべのみこ:持統天皇の息子)の舎人(とねり)などを務めました。若い頃には、壬申の乱を体験したのではないかといわれています。晩年には石見国(いわみのくに:現在の島根県益田市)の役人として赴任し、その地で亡くなったといわれていますが、刑死説、水死説もあり、謎の多い人物です。「サル」という愛称がつけられていたらしく、5番・猿丸大夫と同一人物ではないかという説や、宮廷で実力を発揮しすぎたので、持統天皇の反感を買って、島流しになったのではという説さえありますが、はっきりしません。「万葉集」の代表的歌人で、長歌20首、短歌75首が収められています。人麻呂の歌は勅撰集に248首が入り、後世にも大きな影響を与えています。やがて「人丸影供(ひとまるえいぐ)」といって、歌の上達を願って人麻呂の絵像を壁に掲げて、供え物をしておがんだり、歌合(うたあわせ)をするようになります。いつの頃からか各地に柿本神社が作られ、熱心な歌詠みたちが参拝(さんぱい)するようになりました。「万葉集」では「人麻呂」ですが、平安時代は「人麿」、「百人一首」では伝説の歌人として「人丸」の表記が一般的です。
代表的な和歌
●「近江(あふみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ」(近江の湖(琵琶湖)、夕波に飛ぶ白千鳥よ、お前が鳴けば、私の心もうちひしがれて、都のあった遠い昔が思えてならないのだ。「万葉集」壬申の乱から20年が過ぎ、旅の途中で通った近江の都跡を見て詠ったものです。) 
●「ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島がくれいく 舟をしぞ思ふ」(ほのぼのと夜の明ける頃、明石の浦は朝霧に包まれているが、小舟が島陰に隠れそうになるのを私はしみじみと眺めている。「古今集」ではよみ人しらずですが、人麻呂の作という言い伝えもあります。)
●「東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」(東の野に夜明けの光の立つのが見えて、ふりかえると月が西に傾いている。「万葉集」軽皇子(かるのみこ)が、亡き父・草壁皇子(くさかべのみこ)ゆかりの地へ狩りに出る時の歌です。夜明けの光に新しい時代の幕開けを予感させます。) 
●「もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の ゆくへ知らずも」(いくつもの支流をかかえて流れる宇治川の網代木に、さえぎられて流れかねている波さえも、いつか流れ去ってその行方もわからない。「万葉集」「新古今集」) 
●「淡路(あはぢ)の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐(ひも)吹き返す」(淡路の野島の崎の浜風に、妻が結んでくれた紐をいたずらに吹き返させている。「万葉集」男女が逢って別れる時に互いの紐を結び、また逢う日まで解かないことを誓う風習がありました。)
●「天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島(やまとしま)見ゆ」(都を離れた遠い果ての、長い旅路の間をずっと、恋しく思いながらやってくると、明石の海峡から大和の山々が見える。「万葉集」)
●「石見(いはみ)のや 高角山(たかつのやま)の 木の間より 我が振る袖(そで)を 妹(いも)見つらむか」(石見の国の高角山の木の間から私が振る袖を、妻は見たであろうか。「万葉集」) 
●「笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば」(笹の葉は、山全体がさやさやと風にそよいでいるが、私は妻のことを思う、別れて残して来たので。「万葉集」妻とは人麻呂が石見国に滞在していた間に通った女性でしょう。)
エピソード >

●35番・紀貫之の「古今集」仮名序に「柿本人麿なむ歌の聖(ひじり)なりける。」とあり、歌聖として尊敬されました。83番・藤原俊成も、「いとつねの人にはあらざりける」と神のように敬っています。
●「万葉集」巻2に自分を哀悼する歌(臨死歌)「石見国に在りて死に臨む時に、自ら傷(いた)みて作る歌一首」と「死ぬる時に、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首」が収載されています。 223「鴨山(かもやま)の 岩根(いわね)しまける 我をかも 知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ」(鴨山の岩を枕にして横たわっている私のことを、知らずに妻は待っていることであろうか。) 224「今日今日と 我(あ)が待つ君は 石川の 貝に(谷に)交じりて ありといはずやも」(今日こそ今日こそと、私が待っているあなたは、石川の峡(かい:または谷)に入ってしまっているというではないですか。) 225「ただ逢はば 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ」(じかに逢おうと思っても、逢うことはできないでしょう。石川に雲よ立ちわたれ、せめて眺めてしのびましょう。) 人麻呂の最期については諸説あり、学界では結論が出ていません。ただし、死に臨んでの作は、人麻呂を尊敬する者の代作で、石見国における死は伝承にすぎないとする説があり、その死は謎に包まれています。梅原猛の「水底の歌」では、柿本人麻呂の刑死説が説かれています。人麻呂が何かの政治事件に巻き込まれて2番・持統天皇によって流罪に処せられ刑死したという説です。
●「大和物語」150段「猿沢(さるさわ)の池」に奈良の帝に仕えた采女(うねめ)の話があります。帝のお召がない事をはかなんで猿沢の池に身を投げて亡くなった采女をかわいそうに思って、帝が人麻呂に歌を詠ませています。「わぎもこが ねくたれ髪を 猿沢の 池の玉藻(たまも)と 見るぞかなしき」(あのいとしい乙女の寝乱れた髪を、猿沢の池の藻と思って見るのは悲しいことです。) また151段「紅葉の錦」に奈良の帝とともに龍田川の紅葉がたいそう見事なのを見て詠んだ歌があります。「龍田川 もみぢ葉流る 神(かん)なびの みむろの山に しぐれ降るらし」(龍田川に紅葉が流れております。そのことからみますと、川上の神無備(かんなび:神のいらっしゃる)の三室の山では時雨(しぐれ)が降っているらしい。)
●柿本人麻呂は、705年ごろに石見(いわみ)の国司として赴任し、そこで亡くなったといわれています。石見国は現在の島根県の西部、益田市にあります。柿本人麻呂ゆかりの柿本神社があるのはJR益田駅の西です。ここ以外にも兵庫県明石市、奈良県葛城市など各地に柿本神社はあります。  ●近江大津宮錦織(おうみおおつのみやにしこうり)遺跡は、天智天皇が飛鳥から近江に都を移した、大津宮の跡です。遷都後わずか5年で天皇が亡くなり、壬申の乱で荒れ果ててしまいました。この遺跡には人麻呂の長歌の歌碑があります。天智天皇の都と宮殿が、今はもう草に埋もれ、霞におおわれて見えないことが悲しいと詠っています。 ●大津市役所前には史跡近江大津宮錦織(おうみおおつのみやにしこうり)遺跡にある人麻呂の長歌に対する反歌の歌碑があります。「さ々なみの 志賀の大わだ よどむとも 昔の人に 亦も逢はめやも」(ささなみの志賀の大わだは、今はこのように淀んでいても、昔の人にまた逢えようか。) 
●近江神宮内にも「近江(あふみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ」の歌碑があります。 ●奈良市の興福寺のそばにある猿沢の池には、天皇を恋しく思い、池に身を投げた采女の物語と人麻呂の歌が残っています。 ●平安歌人によって歌枕とされた紅葉の名所・龍田川ですが、人麻呂がその美しさを詠んだ話が「大和物語」にあります。「龍田川 もみぢ葉流る 神なびの みむろの山に しぐれ降るらし」