プロフィール 謙徳公

謙徳公
 
(けんとくこう。924年~972年)

 生前の名前を藤原伊尹(ふじわらのこれまさ・これただ)といい、「謙徳公」は諡(おくりな:偉い人に対して死後にその徳をたたえて贈られる呼び名)です。26番・藤原忠平の孫で右大臣師輔(もろすけ)の長男という、有力な政治家の一族に生まれました。娘が冷泉天皇の女御となり、花山天皇の母となったため、晩年は摂政・太政大臣にまで昇進した、当時の最高権力者です。自邸が一条にあったので「一条摂政」と呼ばれました。節約家で質素な暮らしをしていた父親とは反対に、恵まれた環境でさほど苦労せず権力を手に入れたため、風流を好み、ぜいたくな生活を送ったということです。架空の人物「大蔵史生倉橋豊蔭(おおくらのししょうくらはしのとよかげ)」に託した歌物語的な部分を含む家集「一条摂政御集」があります。「大鏡」にもこの家集の名が記され、歌才が賞讃されています。歌人としてだけでなく、勅撰和歌集編纂という大事業にも貢献しました。和歌所の別当(べっとう:長官)に任じられると、当時の和歌の名手を集めた梨壺の5人(42番・清原元輔、紀時文、49番・大中臣能宣、源順、坂上望城)を率いて、「万葉集」の訓読と「後撰集」の選定に関わりました。才色兼備、派手好みの貴公子で、交際のあった女性は10人以上いたようです。政治家としても前途洋々でありましたが、49歳の若さで亡くなりました。
代表的な和歌
●「隠れ沼(ぬ)の そこの心ぞ うらめしき いかにせよとて つれなかるらむ」(隠れ沼のように、思いをあらわしてくれない心の底が恨めしい。私にどうしろというつもりであなたはそんなに冷淡なのだろうか。「拾遺集」年上の女性への恋歌です。)
●「かなしきも あはれもたぐひ 多かるを 人にふるさぬ 言の葉もがな」(切ないとか、愛しいとか、恋心をあらわす言葉は色々例が多いけれども、人がまだ使い古していない、気のきいた表現があってほしいよ。「新勅撰集」)
●「から衣 袖に人めは つつめども こぼるる物は 涙なりけり」(袖で人目は隠すけれども、涙ばかりは包みきれずに溢れ出ることです。「新古今集」)
●「別れては 昨日今日こそ へだてつれ 千世しも経たる 心ちのみする」(別れてから昨日今日と逢わなかっただけなのに、千年も経ったような気持がしてなりません。「新古今集」正室の恵子女王に贈った歌です。)
●「いにしへは 散るをや人の 惜しみけむ 花こそ今は 昔恋ふらし」(昔はあの人が花の散るのを惜しんだだろうに、今では花の方が亡き人を恋しがっているようだ。「拾遺集」43番・中納言藤原敦忠が38歳で亡くなった後、比叡山の西麓の坂本で人々と花見をした時に詠んだという歌です。)
エピソード
●「大鏡」には「御かたち、身の才(ざえ)、何事もあまりすぐれさせたまへれば、御命のえととのはせたまはざりけるにこそ」と、容貌や学才など何事にも優れていた人物だったから、若くして亡くなったのだとし、特に和歌が巧みであったと語っています。また、世の中のことで、ご自分の心のままにならないことはなく、ぜいたくを好んだエピソードが記されています。大臣になって祝宴を開く準備をしていた時、寝殿の壁板が古くなって少し黒くなっていたのを見つけると、早速、陸奥紙(みちのくにがみ:奥州特産の貴重で高価な和紙)を取り寄せて壁一面に張り詰めさせたのは、普通の人では思いつけないことだと述べています。
●また、「大鏡」には伊尹の若死について、任官争いの話も記されています。昔、藤原朝成と共に蔵人頭の候補になった時「あなたはのちのちいつでもお心のままに蔵人頭になれるご身分でありますが、私はこれが最後の機会だから譲ってほしい」と朝成に頼まれて、伊尹は承知しました。ところが、気が変わったのか、何のあいさつもなく蔵人頭になってしまったので、朝成はこの一族を永久に絶やしてしまおうと誓って亡くなり、悪霊になったというのです。(ただし、史実では伊尹は朝成よりも先に亡くなっています。) 
●伊尹が寝殿の壁板を陸奥紙ではりかえた話が伝わっていますが、「源氏物語」や「枕草子」にも「陸奥紙」として登場するなど、平安時代以後、高級紙の代表とされました。 ●伊尹の邸が一条にあったので一条摂政と呼ばれました。父・師輔(もろすけ)から引き継いだ邸宅は、平安宮の北東に隣接していました。現在は児童公園となり、名和長年戦没遺跡となっています。
●一条院の北方には桃園邸がある。「今昔物語集」には「一条摂政殿の住んでおられた桃園は今の世尊寺(せそんじ)である。そこで摂政殿が読経を営まれた時、比叡山・三井寺および奈良の寺のすぐれた学僧を招いた」と記されています。庭の築山や池などがとても美しかったそうです。 ●比叡山の西麓の坂本で人々と花見をして、歌を詠んでいます。比叡山ドライブウェイ夢見が丘から坂本方面を見下ろす。