プロフィール 在原行平

在原行平
(ありわらのゆきひら。818年~893年)中納言行平

 平城(へいぜい)天皇の皇子・阿保(あぼ)親王の子、在原の姓を賜り、臣籍に下りました。17番・業平の異母兄にあたり、2人は一緒に育てられた時期があったともいいますが、奔放な弟に対して、堅実な兄でした。学問を好み漢詩にも優れていました。因幡国に赴任した行平は、優れた地方官として手腕をふるい、やがて都に戻ると国政にたずさわり中納言にまで昇進しました。彼の性格は、関白に真っ向から意見するほど剛直で、ときには苦境に立たされたようです。民部卿(みんぶきょう)も兼ねたため、在民部卿と呼ばれました。仁明(にんみょう)天皇の蔵人(くろうど)となり、在原一門のために奨学院という学問所を左京三条に創設するなど、不遇な弟業平とは対照的に有能な政治家として活躍しました。また、現存する最古の歌合「在民部卿家(ざいみんぶのきょうけ)歌合」を主催しています。ただ、文徳天皇の御代の850年頃、過失をおかして一時期須磨(すま)に流されていたようですが、正史には記録がありません。その屋敷は烏丸通り高辻、今の因幡薬師堂の付近と伝えられていますが、鴨川辺りにもあったようです。76歳で亡くなっています。「源氏物語」の須磨巻で、光源氏が須磨に隠退した構想は行平をモデルとしています。
代表的な和歌
●「わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩(もしお)たれつつ わぶとこたへよ」(たまたま都で私の身の上を聞いてくれる人があれば、須磨の浦で藻(も)から塩水が垂れ落ちるように、涙をこぼして、つらい思いでわびしく暮らしていると答えておいてください。「古今和歌集」の詞書に「田村の御時に、事に当りて津国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮のうちに侍りける人につかはしける」とあり、行平は文徳天皇の時代に何かの事件に関係して須磨に流罪になった事が知られています。その時の歌です。須磨は古代から、都から離れた寂しげな土地として和歌に詠まれました。)
●「旅人は 袂(たもと)すずしく なりにけり 関吹き越ゆる 須磨(すま)の浦風」(旅人は袂を冷ややかに感じるようになった。関を自由に吹き越えてゆく須磨の浦の風よ。「続古今集」京を去り、摂津国の須磨にいた頃に詠んだという歌です。源氏物語に「行平の中納言の関吹きこゆるといひけむ浦波」とあります。)
●「こきちらす 滝の白玉 ひろひおきて 世の憂き時の 涙にぞかる」(しごき散らす滝の白玉を拾っておいて、人生の辛い時の涙に借りるのだ。「古今集」滝の飛沫を白い宝玉にたとえ、数珠からしごいて散らしたようだと見立てています。それを拾っておいて、辛い時流す涙の代わりにしよう。それほど私には「世の憂き時」が多いのだ、と言っています。父の墓が今の芦屋市にあり、弟の17番・在原業平と時々訪れたようです。布引の滝は現在も新神戸駅の裏山にあります。)
●「春のきる 霞の衣 ぬきをうすみ 山風にこそ みだるべらなれ」(春が着る霞の衣は、緯糸(ぬきいと)が薄いので、山を吹く風に乱れるものらしい。「古今集」山にかかった霞を春の着る衣にたとえ、それが風に吹き乱されるさまを詠いました。)
●「恋しきに 消えかへりつつ 朝露の 今朝はおきゐむ 心ちこそせね」(恋しさに消え入るような思いがして、朝露が置くように、今朝は起きて座っている気持ちにもなれません。「後撰集」行平の残した唯一の恋歌。男が去ったあと、床に残された女の気持ちを詠んでいます。) 
エピソード

●在原氏の長として一族が栄えることを願い、政務に励んだことが知られています。参議大宰権帥(さんぎだざいのごんのそち)として、対馬(つしま:九州と韓国の間の対馬海峡に浮かぶ島)の国費を運ぶ船が半分以上沈んでしまい届かなかったので、壱岐島(いきじま:九州と対馬の中間に位置する)の水田を再開発して費用をまかなう提案をするなど、有能な政策家でした。
●15番・光孝天皇が即位される頃には老齢であり、仁和2年12月、芹川野(せりかわの)行幸には、老病をおして鷹飼(たかがい)役としてお供しています。この日の狩衣は袂(たもと)に鶴の刺繍(ししゅう)をほどこし、背中には「翁(おきな)さび 人な咎(とが)めそ 狩衣(かりごろも) 今日ばかりとぞ 鶴(たづ)も鳴くなる」の歌文字を縫い付けた風流なものだったそうです。歌の意味は「老人が老人らしく趣向をこらすのを、人々よとがめなさるまいぞ。私が狩衣を着てお供をするのも、この狩場の鷹にとらえられる鶴のように、今日が最後だろうよ。そのようだと鶴も鳴いているようだ。」です。自分の最後の奉仕と、獲物の鶴の今日が最後をとかけているのです。(「俊頼髄脳」)  
●奨学院は行平が創立した大学寮(大学の寄宿舎)です。藤原氏の勧学院と並んで「南曹の二窓」と呼ばれました。皇族出身の氏族のための施設で、ここに入ることで出世の道が約束されていたようです。 ●奨学院跡の石碑がある千本三条交差点付近は、立命館大学朱雀キャンパスや京都中央信用金庫が立ち並ぶ大通りになっています。
●行平は須磨に流されてわび住まいをしていたといいますが、今の須磨は海水浴客でにぎわっています。(須磨海浜公園展望台から明石大橋を臨む ●行平の名前は鍋の名前になりました。行平を愛する海女の娘が塩を焼く姿をイメージして、製塩用の鍋に「行平鍋」と名付けたのが始まりだとする説があります。