プロフィール 能因法師

能因法師
(のういんほうし。988年~1050年頃)

  長門守(ながとのかみ)橘元愷(たちばなのもとやす)の息子で、俗名は永愷(ながやす)といいました。父の兄・為愷(ためやす)の養子となったようです。大学で詩歌を学び漢文学や歴史学といった学問を研究する学者、文章生(もんじょうしょう)となりましたが、26歳の時、養父が郎党に殺害され、官途に望みがなくなりました。幼い子もいたようですが、恋人の死をきっかけとして、官職より歌の道の自由を求めて出家を決意しました。摂津国(せっつのくに:兵庫県)の古曾部(こそべ:今の大阪府高槻市)に住んだので「古曾部入道」とも呼ばれましたが、寺院に定住せず旅に暮らしました。最初の法名は「融因(ゆういん)」でしたが、後に「能因(のういん)」としました。藤原長能(ながとう)から和歌を学び、諸国を旅して歌を詠むわが国初の漂泊の歌人として、東北や中国地方、四国などを旅しています。新しい詠風を拓き、特に受領層の歌人たちを指導しました。能因は和歌を「歌道」ととらえた最初の人物です。彼の生き方に習い、「数寄(すき)」の道を確立し、出家する者が続出しました。後世の86番・西行法師や松尾芭蕉などからも深く敬愛されています。歌学に熱心で、とくに歌枕に強い関心を持ち、歌枕の収集家としても有名です。「能因歌枕」を記しました。生涯、歌にこだわり続けた能因ならではの逸話がたくさん残っています。家集「能因法師集」のほか私撰集「玄々集」があり、勅撰集に「後拾遺集」以下65首が入集しています。
代表的な和歌
●「さくら咲く 春は夜だに なかりせば 夢にもものは 思はざらまし」(桜の咲く春は、もし夜だけでもなくなってくれれば、夢の中までもの思いをすることはないであろうに。17番・在原業平の名歌「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」をふまえて、夜深く風の音で目が覚めると、桜が散るのではないだろうかと心配する思いを詠いました。)
●「よそにてぞ 霞たなびく ふるさとの 都の春は 見るべかりける」(遠くからこそ、霞(かすみ)たなびく懐かしい都の春は眺めるべきであるよ。「後拾遺集」長楽寺にて「故郷の霞」を題に詠んだ歌です。長楽寺は、比叡山の延暦寺の別院として平安京の東郊に建てられた寺です。円山公園そばの小高い丘の上にあります。)
●「春日山 岩根の松も 君がため 千歳(ちとせ)のみかは 万代(よろずよ)ぞ経(へ)む」(「今鏡」が伝える内裏歌合の記事には能因の歌が一番に詠まれた栄誉を伝え、その折に本歌も詠まれたと記しています。)
●「心あらむ 人に見せばや 津の国の 難波わたりの 春のけしきを」(しみじみとした味わいが分かる人にぜひとも見せてやりたいものだよ、この摂津の国の難波(淀川の河口付近)あたりの春景色を。「後拾遺集」出家して都から古曾部に隠棲した頃の歌2首です。)
●「山里の 春の夕暮 きてみれば いりあひの鐘 花ぞ散りける」(春の夕暮れに山里へ来てみると、折から寺でつく夕暮れの鐘が聞こえるが、まるでそれに合わせるように花が散っていることだよ。)
●「わび人は 外(と)つ国ぞよき 咲きて散る 花の都は いそぎのみして}(私のような落ちぶれた人間には、辺境の国が合っている。花が咲いては散るように栄枯盛衰の激しい都は、せわしないばかりで。「能因法師集」外つ国とは辺境の国のことで、ここでは出羽国です。)
エピソード
●歌道の師承(ししょう:師からうけ伝えること)は、長能・能因に始まるそうです。「袋草紙」によると、寛弘初年、たまたま藤原長能邸の前で永愷(能因法師の俗名)の牛車が破損しました。車を取りに遣る間に、長能に対面し、以前から抱いていた入門の望みを訴えて、弟子になったということです。家集「能因法師集」には、長能邸での歌会や歌人グループとの交流、夢で9番・小野小町と唱和した作品などもあります。
●「数寄(すき)」のもとは「好き」で、ある物事に深い愛着や情熱を持つことを表します。平安時代には男女の恋愛は美徳で、それを好む者を「好き者」と呼んでいました。その後「数寄」の字があてられ、芸の道にのめりこむ者を「数寄者」と呼ぶようになりました。「袋草紙」には秀歌を詠むための教訓として「数寄給へ、数寄ぬれば秀歌は詠む」(風流心を持ちなさい。そうすれば歌は自然に詠めますよ)と、能因は会う人ごとに語っていたそうです。歌への強い情熱を伝えるものとして、いくつかのエピソードがあります。うがいをしてから歌を詠み、手を洗ってから歌書を見たという話、歌人として有名な19番・伊勢の住居跡を通る時、敬意を表し牛車から降りて歩いたという話、錦(にしき)の小袋に入れていた鉋屑(かんなくず)を歌人の帯刀節信(たてわきときのぶ)に見せて、「これは有名な歌枕である長柄(ながら)の橋を作った時のものだ」と自慢した話などが知られています。相手の節信は喜んで、紙に包んだ蛙の干物(ひもの)を取りだし、「これはかの井出(いで:「古今集」に出てくる歌枕)の蛙です」と言ったので、2人はお互いの数寄者ぶりをたたえあって別れたといいます。
●旅の歌人として有名ですが、歌のために旅に出たふりをした逸話が「古今著聞集」にあります。「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」(都を霞のかかる春に出発したが、もう秋風が吹いている、この白河の関では)の歌は、白河の関まで旅して詠んだのではなく、「旅に出た」といううわさを流し、家の庭で顔を黒く日焼けさせ、いかにも長旅から帰ったふりをして発表したそうです。ただし、家集の詞書には「白河の関にやどりて」とあるので、能因の数寄者ぶりを強調するための作り話と思われます。
●関白・藤原頼通が自邸の釣殿で催した「賀陽院水閣歌合」にも59番・赤染衛門や65番・相模らとともに参加しました。丸太町堀川通東に高陽院跡(賀陽院跡)の金属板が設けられています。  ●秋田県象潟町には能因法師が3年侘び住まいをしたという能因島があります。86番・西行法師の後を追って芭蕉もその跡を訪ねています。   ●19番・伊勢の歌にあこがれ、出家後は摂津国(せっつのくに:兵庫県)の古曽部(こそべ:今の大阪府高槻市)に住んだので「古曽部入道」とも呼ばれました。団地に囲まれた一画に能因の墳墓や歌碑があります。  
●歴史の散歩道の案内板があり、古曽部にある伊勢や能因ゆかりの地をめぐることができます。  ●文塚は、能因が死を前にして、和歌の原稿を埋めたところと伝えられています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。「あらし吹く」の歌碑は、亀山公園にあります。