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百人一首秘話
選歌の経緯

百人一首がどのようにして成立するに至ったかをまとめてみました。

    
西暦 和暦 出来事  
1235かそれ以前 蓮生が、藤原定家に嵯峨中院山荘障子に貼る色紙形作成を依頼
1235 文暦2 5月14日に草稿としての「百人秀歌」ができる?
1235 文暦2
嘉禎元
5月27日に嵯峨中院山荘障子和歌が成立
(この草稿が百人秀歌か)
その年内に 障子絵も完成
1241 藤原定家 没
1251 建長3 藤原為家 続後撰和歌集の選者となり、親子三代の選者となる。
1259 蓮生 入滅 <この後、為家が嵯峨中院山荘に住む>
その後、為家がこの障子和歌に修正を加え、その模本を作成して残ったものが「百人一首」と考えられる。
1278 建治2 藤原為家 没78歳
1394~1428 応永年間 当時の連歌師によって小倉山荘障子和歌として百人一首が発見される。
(この障子和歌が連歌師によって「百人一首」と称された。)
天正~江戸 ポルトガルからカルタが渡来し、貝合わせと同様に、百人一首がその素材の1つとなった。
1951 昭和26 百人秀歌の存在が有吉保氏により明らかにされる。
  
<解説> 百人一首が生まれたのは、蓮生が定家に山荘の障子色紙を作ることに由来するようです。また、昭和26年に有吉保さんによってその存在が明らかになった百人秀歌は、その草稿で、百一首入れられています。草野隆さんは、定家は後に自分の和歌を取り除いて、百首にする予定ではなかったかと記述しています。(太田明さんは、「文屋文秀』」の和歌がキーワードとなっていて「文秀」の「秀」の字が、百人秀歌の「秀」との関係を暗示しているとしています。百人一首と百人秀歌の違いは数点ありますが、それは「百人一首と百人秀歌」で確認してください。
 藤原定家の日記である『明月記』に記述のある『嵯峨中院障子和歌』は、この百人一首に近い物とされますが、まだ、崩御していなかった順徳院や後鳥羽院が諡(おくりな)であることを考えると、後に為家が書き改めたものだと考えることができます。また、百人秀歌では入っていなかった順徳院、後鳥羽院の和歌が組み込まれた訳は、草稿ができた後、鎌倉幕府が、流罪にしていた順徳院や後鳥羽院を許して都に戻すことを拒否したことが5月14日にわかり、そこで、この二人の和歌を組み込むことになったのではないかということです。
 百人一首がどうして「百人一首」として世に出たかについては、江戸時代の連歌師がこの障子色紙を発見し、それが「百人一首」と名付けられたそうです。その後ポルトガルから伝わった「かるたとり」の遊びに100枚と手頃で、しかもよく似たことばが何種類も出てくることもあってゲームとしての面白さがある「百人一首」を使うことで誰もができる遊びとして広まり、流行したと考えられます。