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百人一首秘話
選歌に関わった人たち

  百人一首の選歌に関わる人は主に3人です。依頼人である蓮生、選者である藤原定家、そして最後に蓮生の山荘に移り住み、障子和歌(百人一首)の管理者となった藤原為家です。
蓮生
(宇都宮頼綱)
れんしょう
(1178-1259)
<治承2~正元元>
 俗名:宇都宮頼綱(うつのみやよりつな) 通称:弥三郎。藤原道兼の末裔(まつえい)、下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)の豪族宇都宮氏の出身。子には藤原為家の正室となった娘がいます。文治五年(1189)、源頼朝の奥州征伐に参加し、建久五年(1194)、祖父朝綱が公田掠領(奪い取ったこと))の罪に問われ、それに連座して豊後に流されましたが、間もなく許されます。その後北条時政の娘(母は牧の方)を妻とします。元久二年(1205)、北条義時のもとで畠山重忠を討ちました。同年八月、舅(しゅうと)にあたる北条時政と牧氏の陰謀に加担したとして誅伐を命ぜられましたが、直ちに出家して鎌倉にのぼり、異心無きことを証して一命を得ます。実信房蓮生と号し、法然の弟子となり、そののち証空に師事しました。建保二年(1214)には、莫大(ばくだい)な財力をもって園城寺の修造に寄与しています。承久・嘉禎頃(1219~1238)、伊予守護職に任ぜられます。後半生は京都に住むことが多く、京錦小路と嵯峨小倉山の邸宅で風雅の暮らしを送りました文暦二年(1235)五月、藤原定家を嵯峨中院山荘に招き連歌会をひらく。この頃定家に古今の歌人の色紙染筆を依頼し、これが小倉百人一首のもととなったとも言われています。北条泰時とも和歌を贈答するなど親交があったようです。正嘉元年(1257)、八十賀を祝う屏風歌には婿の為家らが歌を献じています。正元元年(1259)十一月十二日、没。八十二歳でした。  
藤原定家 ふじわらていか
(1162-1241)
<応保2~任治2>
 鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。藤原俊成(としなり)の子です。母は美福門院加賀。正二位,権(ごんの)中納言。京極中納言とよばれました。父の指導をうけ,後鳥羽(ごとば)院歌壇で活躍しました。「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の撰者となり,「小倉百人一首」の選者となっています。「源氏物語」などの古典の書写,校訂にも大きな功績を残しています。仁治(にんじ)2年8月20日死去。80歳でした。法名は明静。日記に「明月記」,家集に「拾遺愚草」,歌論書に「詠歌大概」などがあります。  
藤原為家 ふじわらためいえ
(1198~1275)
<建久9~建治元>
 鎌倉前・中期の歌人。藤原定家の嫡男です。母は西園寺実宗の娘です。正二位,権(ごんの)大納言になっています。歌道家をついで後嵯峨(ごさが)院の歌壇に君臨し、「続後撰和歌集」「続古今和歌集」を撰進しました。阿仏尼は為家のを側室です。為家の子孫は二条・京極・冷泉(れいぜい)家に分立しており、京極家は没してしまいましたが、二条家、冷泉家は今もその歴史を伝えています。建治(けんじ)元年5月1日死去。78歳でした。法名は融覚。通称は中院禅門,民部卿入道。著作に「詠歌一体」,家集に「為家集」などがあります。