日本の詩の歴史をたどる
俳句の誕生まで

  新聞やラジオの俳句コーナー、「おーいお茶」のパッケージの俳句、テレビのバラエティ番組「プレバト!」、「俳句甲子園」など、若い人から高齢の人まで俳句に親しむ人が年々増えています。日本人は「万葉集」の昔から、恋人や家族への思い、自然の美しさなど、うれしい時も悲しい時も生活を歌にしてきました。日本一短い詩、俳句が生まれるまでの歴史をたどってみましょう。
 連句については「おくのほそ道」俳句すごろくの「最上川舟番所」でも説明しています。
 

時代 名 称 形 式 備 考
奈良 短歌 57・57・7 天皇・貴族から農民まで幅広い人々の歌が残っています。 「万葉集」
長歌 57・57・57・57…57・7
旋頭歌 577・577
平安 和歌 57577 天皇・貴族・僧が中心で、ほとんど短歌が詠まれるようになりました。漢詩に対して和歌と呼ばれました。
「古今和歌集」(紀貫之ら編)
鎌倉 「新古今和歌集」(藤原定家ら編)
「小倉百人一首」(藤原定家編)
室町 たんれんが
短連歌


ちょうれんが
長連歌

 ひゃくいん
 ・百韻


はいかいのれんが
俳諧の連歌
575・77



575・77・575・77・575・77…
575・77
あわせて100句



短連歌(たんれんが)は、和歌の上の句(5・7・5=長句)と下の句(7・7=短句)に分け、それぞれを2人が詠み合わせて一首の歌とする和歌の余興のようなものでした。

 やがて何人かで、前に詠まれた句にうまくつながるように詠み重ねていく長連歌(鎖連歌)が生まれました。長句と短句を100句連ねて一巻とする「百韻(ひゃくいん)」という詩形が完成すると、一定のルールにしたがって共同で創り上げる座の文芸として流行しました。



 即興的なおかしみや滑稽味(こっけいみ)が歌の中心となる俳諧の連歌(はいかいのれんが)が生まれ、大衆に広がっていきました。

「三無瀬三吟百韻(みなせさんぎんひゃくいん)」
(宗祇…連歌を完成させた室町後期の連歌師)
江戸 はいかい
俳諧
 





 かせん
 ・歌仙







  ほっく
 ・発句
575・77・575・77・575・77…
575・77




あわせて36句








575
 形式は連歌と同じですが、気軽さや機知(きち)・滑稽(こっけい)を主とした文芸を俳諧(はいかい)といいます。芭蕉とその門人たちは、遊戯的になった俳諧の芸術性を高めた「蕉風(しょうふう)俳諧」を確立しました。



 「百韻(ひゃくいん)」は時間がかかるため、芭蕉の時代には、和歌の三十六歌仙にちなみ、36句を連ねて完結する「歌仙(かせん)」が主流になります。句会を開くことを「歌仙を巻く」と言います。最初の一句目が「発句(ほっく)」で、季節の風物を詠むというルールがあり、これが今日の季語になりました。

 芭蕉は、連句の第一句目としての発句だけでなく、人生観や深い感動をこめたその句だけで独立している発句も作りました。


やがて、「発句(ほっく)」は、575の17音で完結する文学形式となっていきます。
芭蕉は「おくのほそ道」の旅で黒羽、須賀川、尾花沢、大石田、新庄、羽黒山、象潟、酒田などで地元の俳人と歌仙を巻いて交流を深めました。

「涼しさを我が宿にしてねまる也」の一句は、尾花沢の連句の席で発句として生まれたものです。





「夏草や兵どもが夢の跡」「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」など、「おくのほそ道」のほとんどの句は独立した主体性のある句です。
与謝野蕪村・小林一茶らが活躍。
明治 はいく
俳句
575 正岡子規は俳諧の発句(ほっく)を「俳句」と呼びました。自然を見てありのままに詠む写生俳句を提唱しました。 正岡子規により近代俳句の歩みが始まります。「寒山落木」

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