赤間神宮の神門は“水天門”と呼ばれ、竜宮城を模して作られています。これは二位の尼が安徳天皇と共に入水する際に「浪の下にも都の候ぞ(波の下にも都がございます)」言ったことに由来します。 |
赤間神宮の西側には平有盛、平清経、平資盛、平教経、平経盛、平知盛、平教盛の平家一門7人をはじめ、後列にも平忠房や平時子等7人のお墓があります。天明年間(1781-1789)に、海峡に嵐が続いて船の行き来ができなくなった時、真夜中になると海上をさまよう平家の武者や女官の亡霊が目撃されたため、祟りであると考えた地元の人々によって平家一門の墓が集められ、そして墓を京都の方角に向けて供養をしたところ嵐は収まったそうです。 |
平家の亡霊に取りつかれた琵琶の名手である芳一。住職は芳一の全身に教文を書き、霊を取り除こうとしたが、耳にだけ、教文を書き忘れたために耳をとられた芳一の像があります。 |