文覚
神護寺は8世紀の末、和気清麻呂が開山した寺院で、その後、空海らが住持したが、平安時代末期には荒れていました。文覚上人は、この寺院を再興しようと上皇に直訴するが、逆鱗に触れ、伊豆に流されましたが、伊豆で頼朝に挙兵を促すとともに神護寺の再興を認めらました。このことは、平家物語第5巻「文覚荒行」「勧進帳」「文覚被流」に書かれています。また、第12巻「六代」「泊瀬六代」「六代被斬」には、文覚が維盛の子、六代を神護寺で預かっていたことが書かれています。
神護寺楼門
文覚の墓
紅葉で飾られた楼門をくぐると広い境内に金堂、五大堂、毘沙門堂、明王堂(護摩堂)、大師堂、多宝塔などが紅葉と共に建ち並びます。
文覚は神護寺の山の京都の町がよく見下ろせるところに
遺骨を置けと遺言したそうです。