全画面表示 この画面を閉じる

巻 9 - 19


 坂  落
(こざいしょうみなげ)


(平家物語絵本より/小宰相)
源範頼
(小宰相)
<原文>
 越前三位通盛卿の侍に、君田滝口時員といふ者あり。急ぎ北方の御船に参つて申しけるは、
<訳文>
 越前三位通盛(えちぜんのさんみみちもり)殿の侍に、君田滝口時員(くんだたきぐちときかず)という者がいた。急いで北の方・小宰相(こざいしょう)殿の船に参ると、
「君は今朝湊川の下にて敵七騎が中に取り籠(こ)め参らせて、つひに討たれさせ給ひて候ひぬ。中にも殊(こと)に手を下ろいて討ち奉つたりしは、近江国の住人佐々木木村三郎成綱、武蔵国の住人玉井四郎資景とぞ名乗り参らせて候ひつれ。時員も一所(いつしよ)で討死仕り、最後の御供(おんとも)仕るべう候ひしかども、予(かね)てより仰せ候ひしは、『通盛いかになるといふとも、汝(なんぢ)は命を捨つべからず。いかにもして長らへて、御行方(おんゆくゑ)をも尋ね参らせよ』と仰せ候ひしほどに、かひなき命ばかり生きて、つれなうこそこれまで参つて候へ」 「三位殿は今朝湊川(みなとがわ)の下流で敵七騎に取り囲まれ、ついにお討たれになりました。中でも、とりわけ手を下して討ちましたのは、近江国(おうみのくに)の住人・佐々木木村三郎成綱(ささきのきむらのさぶろうなりつな)、武蔵国(むさしのくに)の住人・玉井四郎資景(たまいのしろうすけかげ)と名乗っておりました。時員も一緒に討ち死にし、最後のお供をするつもりでしたが、以前から『通盛がどうなろうと、おまえは命を捨ててはならない。何があっても生き延びて、我が妻の行方を探すのだ』と仰(おお)せでしたので、つまらぬ命を生き長らえて、情けなくもここまで参りました」
と申しければ、北方とかうの返事にも及び給はず、引き被いてぞ臥し給ふ。一定(いちぢやう)討たれぬとは聞き給へども、もし僻事(ひがこと)にてもやあるらん、生きて還(かへ)らるる事もや、と、二三日は白地(あからさま)に出でたる人を待つ心地(ここち)しておはしけるが、四五日も過ぎしかば、もしやの頼みも弱り果てて、いとど心細うぞなられける。ただ一人(いちにん)付き奉りたりける乳母の女房も同じ枕(まくら)に臥(ふ)し沈(しず)みにけり。 と言うと、小宰相殿はなにも返事をされないまま、衣を被(かぶ)って臥(ふ)されてしまった。確かに討たれたとは聞いたけれども、もしかしたら間違いかもしれず、まだ生きておられるかもしれないと、二・三日は軽く出かけた人を待つような気持ちでいらしたが、四・五日も過ぎると、期待もだんだん薄(うす)らいで、とても心細くなられた。ただ一人付き添っている乳母の女房も同じように気を落として臥(ふ)せってしまった。
 かくと聞き給ひし七日の日の暮れほどより十三日の夜までは起きも上がり給はず。明くれば十四日、八島へ着かんとての宵うち過ぐるまでは臥し給ひたりけるが、更けゆくままに船の内静まりければ、乳母の女房に宣ひけるは、  討たれたと耳にされた七日の暮れ頃から十三日の夜までは起きることさえなさらなかった。屋島へ到着する翌・十四日の宵が過ぎるまで臥せっておられたが、更けゆくにつれて船の内が静まってくると、乳母の女房に、
「今朝までは三位討たれにしと聞きしかども、まこととも思はでありつるが、この暮れほどより、げにさもあるらんと思ひ定めてあるぞとよ。その故は、皆人毎(ひとごと)に湊川とやらんにて三位討たれにしとは云ひしかども、その後生きて逢ひたりといふ者一人も無し。 「今朝までは、通盛殿が討たれたと聞いても信じられずにおりましたが、日暮(ひのく)れ過ぎてからは本当のことであるように思えてならなくなりました。そのわけは、誰も皆湊川とかいうところで通盛殿が討たれたとは言うものの、その後生きて逢(あ)ったという人が一人もないのです。
明日うち出でんとての夜、白地(あからさま)なる所にて行き合ひたりしかば、いつよりも心細げにうち嘆いて、 明日出陣(しゅつじん)するという日の夜、忙(いそが)しい中で会ったのですが、いつもより心細げに嘆(なげ)いて、
『明日の軍(いくさ)には通盛必ず討たれんずるはとよ。我いかにも成りなん後、人はいかがし給ふべき。』 『明日の合戦で、おれはきっと討(う)たれるよ。おれが死んだら、そなたはどうなさる』
など云ひしかども、軍(いくさ)はいつもの事なれば、一定(いちぢやう)さるべしとも思はでありつる事こそ悲しけれ。それを限りとだに思はましかば、など後の世と契(ちぎ)らざりけんと思ふさへこそ悔(くや)しけれ。ただならず成りたる事をも日比(ひごろ)隠(かく)して云はざりしかども、あまりに心強(こころづよ)う思はれじとて云ひ出だしたりしかば、斜(なの)めならず嬉しげにて、 などと言ったのですが、合戦はいつものこと、本当にあるなどと思ってもいなかったことが、今は悲しい。そのとき限りと思っていたら、どうして後の世までもと約束しなかったのだろうと、思うことさえ残念でなりません。私が子を宿していることも長い間隠(かく)して言わなかったのですが、あまりに強情(ごうじょう)だと思われるのもいやなので、打ち明けると、とても嬉(うれ)しそうで、
通盛三十に成るまで子といふものの無かりつるに、あはれ同じうは男子にてもあれかし。世の忘れ形見に思ひ置くばかり。さて幾月(いくつき)ほどになるやらん。心地(ここち)はいかがあるらん。いつとなき波の上、船の内の住まひなれば、静かに身々(みみ)となりて後、いかがはし給ふべき』 『おれは三十になるまで子というものがなかったから、男の子だったらいいなあ。この世の忘れ形見だと思うばかりだ。それで何か月になるのだ。気分は悪くないか。いつまで続くかわからない波の上での暮らし、船の中の住まいだから、穏(おだ)やかに産んで二人となるには、どうしたらよいものかなあ』
など云ひしは、はかなかりける兼言(かねこと)かな。まことやらん、女はさやうの時、十に九つは必ず死ぬるなれば、恥ぢがましき目を見て空しうならんも心憂し。静かに身々(みみ)と成つて後、幼き者共育てて亡き人の形見にも見ばやとは思へども、幼き者を見ん度毎(たびごと)には、昔の人のみ恋しくて、思ひの数は増さるとも慰(なぐさ)む事はよもあらじ。つひには遁(のが)るまじき道なり。もしこの世を忍び過ごすとも心に任せぬ世の習ひは、思はぬ外(ほか)の不思議もあるぞとよ。それも思へば心憂し。 などと言われましたが、それははかない未来への言葉だったのです。本当かどうか、女は出産のとき十回に九回は必ず死ぬと聞きますが、恥(は)ずかしい目に遭(あ)って死ぬのはいやです。静かに子を産んで後、子を育てながら夫の忘れ形見を見たいとは思いますが、その子を見るたびに彼のことが恋しくて、思いばかりが募(つの)っても、慰(なぐさ)めることはないでしょう。もう逃れる道はありません。もしこの世を忍(しの)んで暮らしても、思うに任せない世の習い、思いもよらず再婚(さいこん)などもあるかもしれません。それも思えば心憂(こころう)いばかり。
微睡(まどろ)めば夢に見え、覚むれば面影(おもかげ)に立つぞとよ。生きて居てとにかくに人を恋しと思はんより、水の底へも入らばやと思ひ定めてあるぞとよ。其処(そこ)に一人留まつて嘆かんずる事こそ心苦しけれども、それは生くる身なれば嘆きながらも過ごさんずらん。わらはが装束のあるをば取つて、いかならん僧に賜り、亡き人の御菩提をも弔ひ参らせ、わらはが後世をも助け給へ。書き置きたる文をば都へ伝へて給へ」 まどろめば夢に見え、覚めれば幻(まぼろし)が立っています。このままずっと彼を恋しいと思って生き続けるより、水の底に沈んでしまいたいと思うのです。そなたひとりこの世に残れば嘆くであろうと思うとつらいけれども、この世に生きる身ならば嘆きながらも暮らすのが定めでしょう。私の持っている装束(しょうぞく)を取り、どのような僧にでも与え、亡き人の菩提(ぼだい)を弔(とむら)わせ、私の後世(ごせ)も助けてください。書き置いた手紙を都へ届けてください」
など細々と宣へば、乳母の女房涙を押さへて、 などこまごまと言われると、乳母の女房は涙をこらえて、
「稚(いとけな)き子をも振り捨て、老いたる親をも留め置き、遥々(はるばる)とこれまで付き参らせて候ふ志(こころざし)をば、いかばかりとか思し召され候ふべき。今度一谷にて討たれさせ給ふ人々の北方の御嘆(おんなげ)き共、いづれかおろかに渡らせ給ひ候ふべき。されども、いづれか御身(おんみ)をば投げさせ給ふべき。静かに身々(みみ)と成らせ給ひて、いかならん岩木の狭間にても幼き人を育て参らせ、御様(おんさま)を替へ、仏の御名を唱へて亡き人の御菩提を弔ひ参らさせ給へかし。必ず一つ道へとは思し召され候ふとも、生れ変はらせ給ひなん後、六道四生の間にて、いづれの道へか赴かせ給はんずらん。行き合はせ給はん事も難ければ、御身を投げても由(よし)なき御事なり。その上、都の御事をば誰(たれ)か見継(みつ)ぎ参らせよとてかやうには仰せ候ふやらん。恨(うら)めしうも承り候ふものかな」 「幼い子をも振(ふ)り捨てて、老いた親をも都に残し、はるばるとここまで付き添って参ったこの心を、どのようにお考えなのですか。今回、一の谷でお討たれになった人々の奥方様たちのお嘆きを、どなたかおろそかになさいましたか。それでも、どなたかその身を投げられましたか。静かに出産され、どんな岩木の狭間(はざま)であっても子をお育てになり、出家され、仏の御名(みな)を唱えて亡き人の菩提(ぼだい)をお弔(とむら)いなさいませ。来世で再び添(そ)い遂(と)げようと思っておられますが、生まれ変わって後、六道四生(ろくどうししょう)の間でどの道に赴(おもむ)かれるでしょうか。巡(めぐ)り合われることも難しいでしょう、その身を投げられて、何の意味があるでしょう。また都へのお手紙も、どなたに届けるためにそのように言われるのですか。このようなことを頼まれて、私は恨(うら)めしく思います」
とてさめざめと掻(か)き口説(くど)きければ、北方この事悪(ことあ)しうも聞かれぬとや思はれけん。 とさめざめと説得すると、小宰相殿は思いがうまく伝わらなかったと思ってか、
「これは心に代(か)はつても推(お)し量(はか)り給ふべし。大方(おほかた)の世の恨めしさにも人の別れの悲しさにも身を投げんなどいふは常の習(なら)ひ。されどもそれは有難き例しなり。たとひ思ひ立つ事共そこに知らせずしてはあるまじきぞ。今は夜も更けぬ。いざや寝ん」 「これは、私の身になって考えてほしいのです。世の中では、恨めしさから、また別れの悲しさから、身を投げようというのはよくある話です。しかし実際には、そのような例はめったにありません。たとえ思い立ったとしても、そなたには必ず知らせます。夜もすっかり更(ふ)けました。さあ、寝ましょう」
と宣へば、乳母の女房、この四五日は湯水をだにはかばかしう御覧(ごらん)じ入れさせ給はぬ人の、かやうに細々と仰せらるるはまことに思し召し立つ事もやと悲しうて、 と言われると、乳母(めのと)の女房は、この四・五日は湯水(ゆみず)すらお摂(と)りにならない人が、こんなにこまごまと言われるのは、きっと心に決められたことがあるのかもしれないと悲しく思い、
「大方(おほかた)は都の御事もさる御事にて候へども、げに思し召し立つ事ならば、わらはをも千尋(ちいろ)の底までも引きこそ具(ぐ)せさせ給はめ。後れ参らせなん後、更(さら)に片時長らふべしとも覚えぬものを」 「都のことも大切ではありますが、もし決心されているのならば、深い海の底まで私も連れていってください。一人取り残されては、片時(かたとき)さえ生きる甲斐(かい)などありません」
など申して、御側(おんそば)にありながらちとうち目睡(まどろみ)たりける隙に、北方やはら舷(ふなばた)へ起き出で給ひて、漫々(まんまん)たる海上なれば、何方(いづち)を西とは知らねども、月の入るさの山の端を、其方(そなた)の空とや思しけん、静かに念仏し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天戸(あまのと)渡る楫の音、折から哀れや増さりけん、忍び声に念仏百遍ばかり唱へさせ給ひつつ、 などと言い、そばに控(ひか)えて、うとうととまどろんでいる隙(すき)に、小宰相殿はそっと起き出して船端(ふなばた)へ行かれると、広々とした海の上で、どちらが西ともわからないが、月が入る方の山の端(は)を、西の空と思ってか、静かに念仏を唱えられ、沖の白洲(しらす)に鳴く千鳥、漁舟が渡る楫(かじ)の音が、折からの哀(かな)しみをつのらせ、忍(しの)び声で念仏を百遍(ひゃっぺん)ほど唱えられて、
「南無西方極楽世界、教主弥陀如来、本願誤たず浄土へ導き給ひつつ、飽(あ)かで別れし妹背(いもせ)の仲(なか)らひ必ず一蓮(ひとつはちす)に 「南無西方極楽世界(なむさいほうごくらくせかい)、教主弥陀如来(きょうしゅみだにょらい)、どうかこの身を浄土(じょうど)へお導きくださり、悲しく別れた愛する人と同じ蓮(はす)の上にお迎えください」
と泣く泣く遥かに掻(か)き口説(くど)き、「南無」と唱(とな)ふる声共(こえとも)に、海にぞ沈み給ひける。 と泣きながらはるかに願いを捧げ、「南無」と唱える声とともに海の中へと沈んで行かれた。
 一谷より八島へ押し渡らんとての夜半(やはん)ばかりの事なりければ、船の内静まつて、人これを知らざりけり。その中に梶取(かんどり)の一人(いちにん)寝(ね)ざりけるがこの由(よし)を見奉(みたてまつ)りて、  一の谷から屋島へ渡ろうとする夜更(よふ)けのことだったので、船の内は静まりかえり、人々はこれを知らなかった。そんな中、眠(ねむ)らずにいた梶取(かじとり)の一人がこの様子を見て、
「あれはいかに、あの御船(おふね)より女房の海へ入らせ給ひぬるはよ」 「あれはなんだ、あの船から女房が海へ身を投げられたぞ」
と喚(よ)ばはりたければ、乳母の女房うち驚(おどろ)き、傍(そば)を探(さぐ)れどもおはせざりければ、ただ「あれよ、あれ」とぞあきれける。 と叫ぶと、乳母の女房ははっと目を覚まし、そばを探(さぐ)ったがおられなかったので、ただ「ああ、どうしよう」とうろたえた。
人数多下りて、取り上げ奉らんとしけれども、さらぬだに春の夜は習(なら)ひに霞むものなれば、四方の村雲浮かれ来て、潜(かづ)けども潜けども月朧(つきおぼろ)にて見え給はず。遥(はる)かにほど経て後上げ奉たりけれども、はやこの世に亡(な)き人となり給ひぬ。白袴に練貫の二つ衣を着給へり。髪も袴も潮垂(しほた)れて、取り上げけれどもかひぞなき。乳母の女房手に手を取り組み、顔に顔を押し当てて、 人がたくさん海に飛び込み、救おうとしたが、ただでさえ春の夜はいつも霞(かす)むものであり、四方(よも)の群雲(むらくも)も湧(わ)いてきて、潜(もぐ)れども潜れども月がおぼろで見あたらない。ずいぶん経ってから見つかって引き上げたが、既(すで)にこの世の人ではなかった。白袴(しろはかま)に練貫(ねりぬり)を重ねて着ていらした。髪も袴もずっくりと濡(ぬ)れており、引き上げたが、もはやなすすべがなかった。乳母の女房は手に手を取って、顔に顔を押し当てて、
「などこれほどに思し召し立つ事ならば、わらはをも千尋(ちいろ)の底までも引きこそ具(ぐ)せさせ給ふべけれ。恨めしうもただ一人留(とど)めさせ給ふものかな。さるにても今一度物仰(ものおほ)せられて、わらはに聞かせさせ給へ」 「どうしてこれほどに思い込まれていたのなら、私も海の底へ連れて行ってくださらなかったのですか。たった一人残されたことを恨(うら)めしく思います。どうかもう一度だけでも、口をきいてください、私に何か言ってください」
とて悶え焦がれけれども、はやこの世に亡き人となり給ひぬる上は一言(いちごん)の返事にも及(およ)び給はず、僅(わづ)かに通ひつる息もはや絶(た)え果(は)てぬ。 と悶(もだ)え焦(こ)がれたが、もはやこの世の人でなくなられては、一言もお返しにならず、わずかに吐(は)かれる息も絶えてしまった。
 さるほどに、春の夜の月も雲井(くもゐ)に傾き、霞める空も明けゆけば、名残は尽きせず思へども、さてしもあるべき事ならねば、浮きもや上がり給ふと故三位殿の着背長(きせなが)の一領残りたりけるに引き纏(まと)ひ奉り、つひに海へぞ沈めける。乳母の女房も、今度は後れじと続いて海へ入らんとしけるを、人々取り留めければ力及(ちからおよ)ばず。せめてのせん方(かた)なきにや、手づから髪を鋏(はさ)み落し、中納言律師忠快に剃(そ)らせ奉り、泣く泣く戒(かい)を保つて主の後世をぞ弔ひける。昔より男に後(おく)るる類多(たぐひおほ)しといへども様(さま)を替(か)へるは常の習(なら)ひ、身を投ぐるまでは有難(ありがた)き例(ため)しなり。忠臣(ちゅうしん)は二君(じくん)に仕へず、貞女(ていじよ)は二夫(じふ)に見えずとも、かやうの事をや申すべき。  さて、春の夜の月も西空に傾き、霞(かす)んだ空も明けていくので、名残(なごり)は尽(つ)きずとも、そうしてばかりもいられないので、浮き上がられないようにと、故三位通盛殿の一領(いちりょう)残った大鎧(おおよろい)をまとわせ、ついに海に沈(しず)めた。乳母の女房も、今度は後(おく)れまいと続いて海へ入ろうとするのを、人々が止めたので叶(かな)わなかった。精一杯のこととしてか、自ら髪(かみ)を鋏(はさみ)で切り落とし、中納言律師(ちゅうなごんのりっし)・忠快(ちゅうかい)に剃刀(かみそり)を頼み、涙ながらに戒律(かいりつ)を守って主の後世(ごせ)を弔(とむら)った。昔から、男に先立たれることは多いものだが、出家するのが世の常で、身を投げるというのは稀(まれ)なことであった。忠義心(ちゅうぎしん)のある臣下(しんか)は二君(じくん)に仕えず、貞淑(ていしゅく)な妻はは二夫(にぶ)にまみえずとはこのようなことを言うのである。
 そもこの北方と申すは頭刑部卿則方の娘、上西門院の女房、宮中一の美人、名をば小宰相殿とぞ申しける。この女房十六と申しし春の比(ころ)、女院法勝寺へ花見の御幸のありしに、通盛卿その時は未だ中宮亮にて供奉せられたりけるが、この女房をただ一目見て哀(あは)れと思ひ初めしより、その面影のみ身にひしと立ち添(そ)ひて、忘るる隙(ひま)もなかりければ、歌を詠(よ)み、文(ふみ)をば尽(つ)くされけれども、玉章(たまづさ)の数のみ積つて、取り入れ給ふ事もなし。  そもそもこの北の方というのは、頭刑部卿(とうのぎょうぶきょう)・藤原憲方(ふじわらののりかた)殿の娘、上西門院(じょうさいもんいん)・統子内親王(むねこないしんのう)の女房で、宮中一の美人、名を小宰相殿と言う。小宰相殿が十六歳であった安元(あんげん)の春、女院が法勝寺(ほっしょうじ)へ花見に行かれたとき、まだ中宮亮(ちゅうぐうのすけ)であった通盛殿がお供され、この女房をただ一目見て愛らしいと思い初め、それから面影が身から離れず、忘れる時もなくて、歌を詠(よ)んだり、文を書いたりしていたが、手紙の数ばかり増えて、受け取られることはなかった。
〔※注 すでに三年になりしかば、通盛の郷いまをかぎりの文を書いて、小宰相殿のもとへつかはす。〕剰(あまつさ)へ取り伝へける女房にだに逢はずして、使(つかひ)空(むな)しう帰りける道にて、折節(をりふし)小宰相殿は里より御所へぞ参られける。使空しう帰り参らん事の本意(ほい)なさに、傍(そば)をつと走り通るやうにて、小宰相殿の車の簾の内へ通盛の文をぞ投げ入れたる。伴の者共に問ひ給へば、「知らず」と申す。 〔※注 もう三年になったので、通盛の郷はこれが最後だという手紙を書いて、小宰相殿のもとに送る。〕それを伝えるための女房にすら逢(あ)えず、使者が空(むな)しく帰ろうとすると、小宰相殿はちょうど里から御所へ戻られるところだった。使者は空しく帰ることの無念(むねん)さに、そばをさっと駆(か)け抜けるようにして、小宰相殿の車の簾(すだれ)の内へ通盛の文を投げ入れた。伴(とも)の者たち尋ねられても、「知りません」と言う。
さて、かの文を開けて見給へば通盛卿の文にてぞありける。車に置くべきやうもなし。大路に捨てんもさすがにて、袴の腰に挟みつつ御所へぞ参り給ひける。さて、宮仕へ給ひしほどに、所しもこそ多けれ、御前に文を落されたり。女院これを取らせおはしまし、急ぎ御衣の御袂(おんたもと)に引き隠させ給ひて、 さて、その文を開けてご覧になると通盛卿の文であった。車に置いておくわけにもいかない。大路(おおち)に捨てることもできず、袴(はかま)の腰に挟(はさ)んだまま御所へ向かわれた。そして、宮仕えをされている間に、よりによって、御前(ごぜん)で文を落としてしまわれた。女院がこれを手にされ、急いで御衣(ぎょい)の袂(たもと)に隠(かく)されると、
「珍しき物をこそ求めたれ。この主(ぬし)は誰なるらん」 「珍(めずら)しい物を手に入れました。持ち主はどなたでしょう」
と仰せければ、御所中の女房達、万の神仏にかけて、「知らず」とのみぞ申されける。その中に小宰相殿ばかり顔うち赤めて、つやつや物も申されず。女院も内々通盛卿の申すとは知ろし召されたりければ、さてこの文を開けて御覧ずれば、妓炉(きろ)の煙(けぶり)の匂(にほ)ひ殊に懐(なつ)かしく、筆の立所(たてど)も世の常ならず。『あまりに人の心強きも今は中々(なかなか)嬉しくて』など、細々(こまごま)と書いて、奥には一首の歌ぞありける。 と言われると、御所中の女房たちは万(よろず)の神仏(かみほとけ)に誓(ちか)って、「知りません」とばかり答えた。その中で、小宰相殿だけが顔を赤らめ、まったく口もきかない。女院も、内々通盛殿のことを知っておられたので、文を開いてみると、焚(た)き染(そ)められた香(こう)の匂(にお)いは殊(こと)に馨(かんば)しく、筆さばきも見事なものであった。『あまりにあなたがつれなくされるのも、今はそれが却(かえ)って嬉(うれ)しくて』などとこまごまと書かれてあり、奥に一首の歌が詠まれていた。
  我が恋はほそ谷川(たにがは)のまろき橋ふみかへされてぬるる袖(そで)かな   我が恋は細い谷川の丸木橋、ふみ返されて濡(ぬ)れる袖かな
女院、 女院は、
「これは逢はぬを恨みたる文なり。あまり人の心強きも中々今は仇(あた)となりなんものを」 「これは逢(あ)わないのを恨(うら)んだ文です。あまり強情なのも、却って仇(あだ)になるというのに」
中比(なかごろ)、小野小町とて、眉目形(みめかたち)美しう情(なさけ)の道有難(ありがた)かりしかば、見る人聞く者肝魂(きもたましひ)を傷(いち)ましめずといふ事なし。されども、心強き名をや取りたりけん、果(は)てには人の思ひの積りて、風を防ぐ便りもなく、雨を漏(ぬ)らさぬ業(わざ)もなし。 中頃、小野小町(おののこまち)という風雅(ふうが)な美貌(びぼう)の女がいて、見る者聞く者皆がとりこになったという。しかし、気が強く薄情(はくじょう)だと言われるようになり、挙(あ)げ句、人の思いを募(つの)らせた報(むく)いか、風を防いでくれる人もなくなり、漏(ぬ)る雨を防ぐことさえできなくなった。
女院、 女院は、
「これはいかにも返事あるべき事ぞ」 「これはなんとしても返事をすべきです」
とて御硯(おんすずり)召し寄せて、忝(かたじけな)くも自ら御返事(おんぺんじ)遊ばされけり。 と、硯(すずり)を召(め)し寄せ、もったいなくも自ら返事をしたためられた。
  ただ頼めほそ谷川のまろきばしふみかへしてはおちざらめやは   ただ頼め細い谷川の丸木橋、ふみ返したら落ちるはずです
胸の内の思ひは富士の煙(けぶり)に顕(あらは)れ、袖の上の涙は清見関の波なれや。眉目(みめ)は幸(さいはひ)の花なれば、三位この女房を賜はつて互ひの志(こころざし)浅からず。されば西海の旅の空、船の内の住(す)まひまでも引き具(ぐ)して、つひに同じ道へぞ赴かれける。 胸の内の思いは富士の煙のごとく、袖の上の涙は清見関(きよみがせき)の波のようであった。美貌(びぼう)は幸運の花だから、通盛殿はこの女房と妻として賜(たまわ)ると、互いの心は深く結ばれた。ゆえに、西海の旅の空、船の内の住まいまでも連れて行き、ついに同じ道に赴(おもむ)かれたのである。
 門脇中納言は嫡子越前三位、末子業盛にも後(おく)れ給ひぬ。今頼み給へる人とては、能登守教経、僧には中納言律師忠快ばかりなり。故三位殿の形見とも、この女房をこそ見給ふべきに、それさへかやうに成り給へば、いと心細うぞなられける。  門脇中納言教盛(かどわきのちゅうなごんのりもり)殿は嫡子(ちゃくし)・越前三位通盛殿、末子(ばっし)・業盛(なりもり)殿にも先立たれてしまった。今頼りになる人は、能登守教経(のとのかみのりつね)殿、僧では中納言律師(ちゅうなごんりっし)・忠快(ちゅうかい)だけであった。故・三位通盛殿の形見として、小宰相を見られていたのに、それさえこのようなことになってしまい、とても心細くなられたのだった。
<注>

●「通盛すでに〜子といふもののなかりつるに」…長い間待ち望んでいた子の出来たうれしさ、それが明日にも死ぬ時であるというなど、様々な思いがこめられている。

●身身…子を産んで身二つになること。

〔※訳「あかで別れしいもせのなからへ、必ず一つ蓮にむかへ給へ」(まだ飽きないうちに別れた仲の私ども夫婦を、必ず同じ蓮の上にお迎えください)〕

●筆の立所(たてど)…「たてど」は立てる所。筆の使い方。ここでは字のうまいことをいう。

●「踏み返されて」と「文返されて」とをかける。

●小野小町…平安時代前期の歌人。六歌仙の一人。美人として有名。

●門脇中納言教盛…平清盛の弟の一人。四人の息子のうち戦で二人、その上、息子の妻まで亡くしたことになる。

本文に戻る