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巻 11 - 4



(ろくだいきられ)


(和歌山/熊野本宮大社)

(六代)
<原文>
 六代御前は漸う十四五にも成り給へば、眉目形美しく、辺も照り輝くばかりなり。母上これを見給ひて、
<訳文>
 六代殿はやがて十四・五歳になられ、容姿(用紙)も美しくなり、辺(あた)りも照り輝くばかりであった。建春門院新大納言(けんしゅんもんいんしんだいなごん)殿がこれをご覧になり、
「世の世にてあらましかば、当時は近衛司にてあらんずるものを」 「世が世であったなら、今頃は近衛司(こんえづかさ)くらいにはなっていただろうに」
と宣ひけるこそあまりの事なれ。鎌倉殿便宜毎(べんぎごと)に高雄の聖(ひじり)の許(もと)へ、 と言われたのはさすがに言い過ぎである。頼朝殿はなにかにつけて高雄(たかお)の文覚房(もんがくぼう)のところへ、
「さても預け奉つし小松三位中将維盛卿子息六代御前はいかやうにや候ふやらん。昔頼朝を相(さう)し給ひしやうに朝(てう)の怨敵(をんでき)をも平らげ、父の恥をも雪(きよ)むべきほどの仁やらん」 「それにしても、預けている小松三位中将維盛(こまつのさんみちゅうじょうこれもり)殿の子息・六代御前(ろくだいごぜん)どうしていますか。昔、頼朝を占(うらな)われたように、朝廷の怨敵(おんてき)を征伐(せいばつ)し、父・維盛殿の恥(はじ)も雪(すす)ぐほどの器量(きりょう)だろうか」
と申されければ、文覚坊聖の返事には、 と言われると、文覚房の返事には、
「これは一向底(そこ)もなき不覚仁(ふかくじん)にて候ふぞ。御心(おんこころ)安く思し召され候へ」 「彼はまったく底なしの愚(おろ)か者です。ご安心なさいませ」
と申されけれども、鎌倉殿なほも心行かずげにて、 と言われたが、頼朝殿はまだ不安で、
「謀反起さばやがて方人(かたうど)すべき聖の御坊(ごぼう)なり。さりながらも頼朝一期(いちご)が間は誰か傾くべき、子孫の末(すゑ)は知らず」 「謀反(むほん)を起こせば、そなたはその片棒(かたぼう)を担(かつ)ぐお人だ。この頼朝が生きている間は誰にも手出しはさせない、その後についてはわからない」
と宣ひけるこそ恐ろしけれ。母上この由を聞き給ひて、 と言われたというから恐(おそ)ろしい。建春門院新大納言殿がこの由(よし)を聞かれ、
「いかにや六代御前、早々(はやはや)出家し給へ」 「いけない、六代御前、急いで出家なさい」
とありしかば、生年十六と申し文治五年の春の比(ころ)、さしも美しき御髪を肩の廻(まは)りに鋏(はさ)み落し、柿の衣、袴、笈など用意して、やがて修行にこそ出でられけれ。斎藤五、斎藤六も同じ様(さま)に出で立ちて御供(おんとも)にぞ参りける。 言われたので、十六歳になる文治(ぶんじ)五年の春の頃、あれほど美しかった髪を肩の辺りで切り落とし、柿(かき)の衣(ころも)や袴(はかま)、笈(おい)など用意して、すぐに修行に出られた。斎藤五宗貞(さいとうごむねさだ)、斎藤六宗光(さいとうろくむねみつ)も同様の出(い)で立ちでお供をした。
まづ高野へ上り、父の善知識(ぜんちしき)したりし滝口入道に尋ね逢ひ、御出家の様、御臨終の有様、委(くわ)しう尋ね問ひ、且(か)つはその跡(あと)もゆかしくとて、熊野へこそ参られけり。浜宮と申し奉る王子の御前(おんまへ)より、父の渡り給ひたりし山なりの島見渡いて、渡らまほしく思はれけれども波風向かうて叶(かな)はねば力及(ちからおよ)び給はず、眺(なが)めやり給ふに、我が父は何処(いづく)にか沈(しず)み給ひけんと、沖より寄する白波にも問はまほしくぞ思はれける。浜の真砂(まさご)も父の御骨(ごごつ)やらんと懐かしくて、涙に袖は萎れつつ、塩汲む海士の衣ならねど、乾く間なくぞ見えられける。渚(なぎさ)に一夜逗留し、終夜経読(よもすがらきようよ)み念仏して、明けぬれば貴き僧を請(しやう)じて真砂に仏の形書き現し、作善の功徳さながら聖霊に廻向(ゑかう)して都へ帰り上られけり。 まず高野山(こうやさん)へ上り、父・維盛殿を仏道に導いた滝口入道時頼(たきぐちにゅうどうときより)を訪ねて会い、御出家の様子や、御臨終(ごりんじゅう)のありさまなどを詳(くわ)しく尋ね、また父の跡(あと)を見ようと、熊野権現(くまのごんげん)に参った。浜(はま)の宮(みや)という王子社(おうじやしろ)の御前(おんまえ)から、父の渡られた山のような島を見渡して、渡りたいとは思われたが、向かい来る波風に阻(はば)まれて叶(かな)わず、眺(なが)められるほどに、我が父はどこに沈(しず)まれたのかと、沖から寄せる白波に問いたい思いであった。浜の真砂(まさご)も父の骨だろうかと懐(なつ)かしく、涙に袖(そで)は萎(しお)れ、まるで塩汲(しおく)みをする海士(あま)の衣のように、乾(かわ)く暇(ひま)もなく見えた。渚(なぎさ)に一夜逗留(とうりゅう)し、夜通し経を誦(しょう)し念仏を唱え、明けると貴(とうと)い僧を招いて砂の上に仏の御姿を描くなど作善(さぜん)をし、功徳(くどく)をそのまま聖霊(しょうりょう)に回向(えこう)して都へ帰られた。
 さるほどに、六代御前は三位禅師とて、高雄に行(おこな)ひ澄(す)ましておはしけるを、鎌倉殿  さて、六代御前は三位禅師(さんみのぜんじ)として高雄で修行されていたが、鎌倉殿は、
「さる人の子なり、さる者の弟子なり。たとひ頭をば剃りたりとも、心をばよも剃らじ」 「ある人の子である、ある者の弟子である。たとえ頭を剃(そ)ったところで、心までそり落とすことはない」
安判官資兼に仰(おほ)せて召(め)し捕(と)つて、つひに関東へぞ下されける。駿河国の住人岡辺権守泰綱に仰せて、田越川の端にてつひに斬(き)られにけり。十二の歳より三十に余(あま)るまで保ちけるは、偏(ひとへ)に長谷の観音の御利生(ごりしやう)とぞ聞えし。三位禅師斬られてこそ平家の子孫は永(なが)く絶(た)えにけれ。 判官・安藤資兼(あんどうすけかね)に命じて捕(と)らえさせ、ついに関東へ連れて行かれた。駿河国(するがのくに)の住人・岡辺権守泰綱(おかべごんのかみやすつな)に命じ、田越川(たごえがわ)のほとりでついに斬(き)られた。十二歳より三十余歳まで命を保てたのは、ひとえに長谷観音(はせかんのん)の利生(りしょう)であると言われた。三位禅師(さんみのぜんじ)・俗名(ぞくみょう)・平高清(たいらのたかきよ)殿が斬られて、平家の子孫は滅亡した。
<注>

●建春門院新大納言…藤原成親の次女で、建春門院の女房として出仕。平維盛の正室となって、六代と娘を産む。夫の維盛は一門を離脱して入水自殺した。

●近衛司…近衛府の役人。父の維盛は、十一歳で右近衛少将であった。

●六代…平家滅亡後の残党狩りで捕らえられ処刑されるところを、文覚を通じて源頼朝に助命を嘆願し、かなえられた。(巻12の7「六代」)

●頼朝を占う…巻5の10「福原院宣」にくわしい。

●不覚…精神のしっかりしていないさまをいう。

★この後に、覚一本系の諸本には、平家の子孫は一歳の子、二歳の子をも残さず、徹底的に捜し捕らえて殺してしまったことが書かれているが省略。(紀伊国の湯浅氏に身を寄せていた重盛の子忠房は、助けるとだまして斬殺。末子の宗実は出家していたが、鎌倉へ下る途中に飲食を断って死亡。建久七年には法性(ほっしょう)寺辺に忍んでいた知盛の子知忠も攻められて自害。)〕

〔※訳 覚一本系の諸本には鎌倉殿を源頼家か実朝としている。源頼朝は建久十年に死亡しているため。〕

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