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巻 7 - 14


維 盛 都 落
(これもりみやこおち)


(平家物語絵本より/維盛都落)
平清盛
(平 維盛)
<原文>
 中にも小松三位中将維盛卿は、日比(ひごろ)より思ひ設け給へる事なれども、差し当たつて悲しかりけり。この北方と申すは、故中御門新大納言成親卿の御娘、孤子にておはせしかども、桃顔(たうがん)露に綻(ほころ)び、紅粉(こうふん)眼(まなこ)に媚(こび)を成し、柳髪(りうはつ)風に乱るる粧(よそほひ)、また人あるべしとも見え給はず。六代御前とて生年十に成り給ふ若君、その妹八歳の姫君おはしけり。この人々も面々に後(おく)れじと慕ひ給へば、
<訳文>
 小松三位中将(こまつのさんみちゅうじょう)・平維盛(たいらのこれもり)殿は、日頃から(都を離れ、妻子と別れる)覚悟はしていたが、いざとなると悲しかった。維盛殿の北の方というのは、故中御門新大納言(こなかのみかどのしんだいなごん)・藤原成親(ふじわらのなりちか)殿の娘で、孤児(こじ)でいらしたが、その顔は露(つゆ)に濡(ぬ)れた桃(もも)の花の咲くがごとく、紅(べに)をつけた頬(ほお)に艶(つ)やかなまなざし、しなやかな髪(かみ)は柳(やなぎ)の風に乱れるような装いで、他にはいないほどの美人でいらした。六代御前(ろくだいごぜん)いう十歳になられる若君と、妹で八歳になる姫君がおられた。彼らも他の人々に残されまいと慕(した)われると、
三位中将宣ひけるは 維盛殿は、
「我は日比(ひごろ)申ししやうに、一門に具せられて西国の方へ落ち行くなり。何処(いづく)までも具足(ぐそく)し奉るべけれども、道にも敵(かたき)待つなれば、心安く通らん事有難(ありがた)し。たとひ我討(う)たれたりと聞き給ふとも、様(さま)など替へ給ふ事は努々(ゆめゆめ)あるべからず。その故は、いかならん人にも見もし見えて、あの幼き者共をも育み給へ。情をかくる人もなどか無かるべき」 「いつも言っていたように、一門と共に西国の方へ落ちて行くのだ。どこまでも連れて行きたいが、途中にも敵が待ち構えているだろうから、簡単には通り抜けられないだろう。たとえ私が討たれたと聞いても、出家などは決してしてはなりませんぞ。そのわけは、どのような人にも連れ添って、あの子たちを育ててほしいからです。そなたに情けをかけてくれる人はきっといるはずだから」
とやうやうに慰め宣へども、北方とかくの返事もし給はず引き被いてぞ臥し給ふ。中将既にうち立たんとし給へば、北方袖にすがり、 とあれこれ慰(なぐさ)められたが、北の方は何も返事をせず、衣を被(かぶ)って臥(ふ)せられた。維盛殿が立ち上がろうとすると、北の方は袖(そで)にすがり、
「都には父もなし母もなし、捨てられ奉つて後は誰にかは見ゆべきに、いかならん人にも見えよなど承るこそ恨めしけれ。前世の契りありければ、人こそ憐れみ給ふとも、また人毎(ひとごと)にしもや情をかくべき。何処(いづく)までも伴(ともな)ひ奉り、同じ野原の露とも消え、一つの底の水屑(みくず)とも成らんとこそ契りしに、されば小夜の寝覚の睦言(むつごと)は、皆偽りになりにけり。せめては身一つならばいかがせん、捨てられ奉る身の憂(う)さを思ひ知つても留まりなん。幼き者共をば、誰に見譲(みゆづ)り、いかにせよとか思し召す。恨めしうも留め給ふものかな」 「都には、父もなし、母もなし、あなたに捨てられた後、誰かと結ばれようなどと、どのような人にも連れ添(そ)えなどとお聞きするのが恨(うら)めしい。前世(ぜんせ)の契(ちぎ)りがあって人が情をかけてくださるとしても、誰でも情をかけるなどということはありません。どこまでも一緒に、同じ野原の露と消え、ひとつの底の藻屑(もくず)となっても、と約束したのに、それでは夜(よ)の寝覚(ねざ)めの蜜(みつ)の言葉は、あれはみな偽(いつわ)りだったのですか。せめて私ひとりならばなんとかし、捨てられる身の憂(う)さを思い知って留(とど)まりましょう。しかしこの子たちを、誰に託(たく)し、どうせよと思われるのですか。お留めになるとは恨めしい」
とて、且つは恨み且つは慕ひ給へば、三位中将 と、恨んだり慕ったりされると、維盛殿は
「まことに人は十三、我は十五より見初め奉り、火の中水の底へも共に入り共に沈み、限りある別れ路(ぢ)までも後(おく)れ先立たじとこそ思ひしか。今日はかく物憂き有様共にて軍の陣へ赴けば、具足し奉つて、行方も知らぬ旅の空にて憂き目を見せ参らせんも我が身ながらうたてかるべし。その上今度は用意も候はず。何処の浦にも心安う落着きたらば、それより迎へに人をも参らせめ」 「そなたは十三歳、私は十五歳より結ばれて、共に火の中へ入り、水の底へ沈み、限りある命を別れ道までは後(おく)れ先立つまいと思ってきました。今日はこのような物憂(ものう)いありさまで合戦の陣(じん)に赴(おもむ)くので、連れて行き、行方も知らぬ旅の空でつらい目をお見せするのは自分としても情けないのです。その上、今回は満足な準備もしていません。どこの浦にか安心できる場所が見つかったら、そこから迎(むか)えに人をよこしましょう」
とて思ひ切つてぞ立たれける。中門の廊(らう)に出で、鎧取つて着、馬引き寄せさせ既に乗らんとし給へば、若君姫君走り出で、父の鎧の袖、草摺に取り付き、 と思い切って発たれた。中門(ちゅうもん)の廊下に出て、鎧(よろい)を取って着、馬を引き寄せさせてまさに乗ろうとしたとき、若君と姫君走り出て、父の鎧の袖や草摺(くさずり)にしがみつき、
「これはされば何方(いづち)へとて渡らせ給ひ候ふやらん。我も参らん。我も行かん」 「父上、いったいどこへ行かれるのですか。私も参ります。私も行きます」
慕ひ泣き給へば、憂き世の絆と覚えて、三位中将、いとどせん方なげにぞ見えられける。 慕って泣かれると、つらい世の切れない絆(きずな)と思われて、維盛殿はどうしようもなさげに見えた。
 御弟(おんおとと)新三位中将資盛、左中将清経、同少将有盛、丹後侍従忠房、備中守師盛、兄弟五騎馬に乗りながら門の内へうち入れて、庭に控(ひか)へ、大音声を揚(あ)げて  弟の新三位中将資盛(しんざんみのちゅうじょうすけもり)、左中将清経(さちゅうじょうきよつね)、同・少将有盛(しょうしょうありもり)、丹後侍従忠房(たんごのじじゅうただふさ)、備中守師盛(びっちゅうのかみもろり)、兄弟五騎、馬に乗りながら門の内へ入り、庭に控(ひか)え、大声を張り上げて
「行幸は遥かに延びさせ給ひぬらんに、いかにや今までの遅参(ちさん)候ふ」 「行幸は遥(はる)か遠くまで進まれたというのに、どうしてまだ出立されないのか」
と声々に申されければ、三位中将馬にうち乗つて出でられけるが、引き返し縁(えん)の際(きは)へうち寄せ、弓の弭(はず)にて御簾をさつと掻(か)き上げて、 と声々に言われたので、維盛殿は馬に跨(またが)って出られたが、引き返し縁側(えんがわ)へ寄せ、弓の筈(はず)で御簾(みす)をさっとかき上げて、
「これ御覧候へ。幼き者共があまりに慕ひ候ふを、とかく拵(こしら)へ置かんと仕るほどに、存知(ぞんじ)の外(ほか)の遅参(ちさん)候ふ」 「あれを見てくれ。我が子たちがあまりに慕いすがるのをなんとか言い聞かせようと、それでずいぶん時間を取ってしまったのだ」
と宣ひも敢(あ)へず、はらはらと泣き給へば、庭に控へ給へる人々、皆鎧の袖をぞ濡らされける。 と言い終わらないうちにほろほろと泣かれると、庭に控(ひか)えておられた人々も皆鎧の袖を濡(ぬ)らされた。
 ここに三位中将の年比の侍に斎藤五、斎藤六とて、兄は十九、弟は十七になる侍あり。三位中将の御馬の左右に取り付いて  ここに維盛殿の年来(ねんらい)の侍(さぶらい)に斎藤五宗貞(さいとうごむねさだ)、斎藤六宗光(さいとうろくむねみつ)という、兄は十九歳、弟は十七歳になる者がいた。維盛殿の馬の左右に取りついて
「何処(いづく)までも御供仕(おんともつかまつ)り候はん」 「どこまでもお供いたします」
と申しければ、三位中将宣ひけるは と言うと、維盛殿は
「己等(おのれら)が父長井斎藤別当実盛が北国へ下りし時、供せうと云ひしを『存ずる旨があるぞ』とて、汝等(なんぢら)を留め置き、つひに北国にて討死したりしは、古い者にて、かかるべかりける事を予(かね)て悟つたりけるにこそ。あの六代を留めて行くに、心安う扶持(ふち)すべき者の無きぞ。ただ理を枉(まげ)げて留まれかし」 「お前たちの父・長井斎藤別当実盛(ながいさいとうべっとうさねもり)が北国へ下ったとき、お前たちが供をすると言うのを『思うところがある』と言って留め置き、ついに北国で討ち死にしたのは、百戦錬磨(ひゃくせんれんま)でこうなることをあらかじめ悟っていたからだ。息子・六代を都に残して行くにも、安心して託せる者がいない。どうかこの無理をわかって留まってくれ」
と宣へば、二人の者共力及ばず、涙を押さへて留まりぬ。北方は、 と言われると、二人はやむなく、涙をこらえて留まった。北の方は、
「年比日比(としごろひごろ)かく情(なさ)けなき人とこそ、かけては思はざりしか」 「長年連れ添って、これほ薄情(はくじょう)な人だとは少しも思っていませんでした」
とて引き被いてぞ臥し給ふ。若君、姫君、女房達は御簾の外(ほか)まで転(まろ)び出で、人の聞くをも憚(はばか)らず、声をばかりに喚(をめ)き叫び給ひける。その声々耳の底に留まりて、されば西海の立つ波、吹く風の音までも聞くやうにこそ思はれけれ。 と言って衣を被って臥せられた。若君、姫君、女房たちは御簾の外まで転び出て、人が聞くのもはばからず、声を限りに泣き叫ばれた。その声々は耳の底に染(し)みついて、西海の立つ波、吹く風の音までも、この泣き声を聞くように思われた。
 平家都を落ち行くに、六波羅、池殿、小松殿、八条、西八条以下人々の家々二十余箇所、次々(つきづき)の輩(ともがら)の宿所宿所(しゆくしよじゆくしよ)、京白河に四五万軒(しごまんげん)が在家(ざいけ)火を懸(か)けて一度に皆焼き払ふ。  平家が都を落ちるとき、六波羅(ろくはら)、池殿(いけどの)、小松殿(こまつどの)、八条(はちじょう)、西八条(にしはちじょう)以下、人々の屋敷二十余箇所、従う者たちの屋敷、京白河(きょうしらかわ)に四五万軒の民家に火をかけて一度にすべてを焼き払った。
<注>

★この段までのあらすじ…木曾義仲が京に攻め入ると聞くと、平家一門は安徳天皇とともに西国へ落ちていくことを決意する。(「主上都落」巻7の13)

●北の方…父、藤原成親は平家への謀反(「鹿谷」巻1の12)のため、流罪地で惨殺された。(「大納言死去」巻2の10)

●都落ちに際して、維盛だけは都に妻子を残していく。

●中門…中庭から外に出るための門。

●草摺…鎧の胴の部分から垂らし、下腹部やふとももを保護するもの。

●斎藤実盛…「実盛」(巻7の8)にその最期が語られている。七十余歳の実盛は、富士川合戦で水鳥の羽音に驚き、京に逃げ帰ったことだけが老後の恥(はじ)と、退却(たいきゃく)する平家軍の中で一騎引き返して防戦し討ち死にした。

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