御使(おつかひ)は丹左衛門尉基康といふ者なり。急ぎ舟より上がり、 |
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使者は丹左衛門尉基康(だんざえもんのじょうもとやす)という者であった。急いで舟から上がり、 |
| 「これに都より流され給ひたりし丹波少将成経、平判官入道殿やおはす」 |
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「ここに都から流された丹波少将成経(たんばのしょうしょうなりつね)、平判官入道康頼(へいほうがんにゅうどうやすより）殿はおられないか」 |
| と声々にぞ尋ねける。二人の人々は例の熊野詣して無かりけり。 |
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とあちこち声をかけて尋ねた。二人は例の熊野詣(くまのもうで)をしていて、いなかった。 |
| 俊寛一人ありけるが、これを聞きて、 |
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法勝寺執行(ほっしょうじしゅぎょう)・俊寛僧都(しゅんかんそうず)が一人いたが、これを聞き、 |
| 「あまりに思へば夢やらん。また天魔波旬(てんまはじゆん)の我が心を誑(たぶら)かさんとて云ふやらん。現(うつつ)とも覚えぬものかな」 |
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「思いが強すぎて夢でも見てるのだろう。それとも天魔(てんま)が我が心をたぶらかそうとして言っているのだろうか。現実とはとても思えない」 |
| とて周章(あわ)てふためき、走るともなく倒るるともなく急ぎ御使の前に走り向かひて、 |
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と慌(あわ)てふためいて、走るともなく倒れるともなく急いで使者の前に走ってゆき、 |
| 「これこそ京より流されたる俊寛よ」 |
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「我こそ京から流された俊寛だ」 |
| と名乗り給へば、雑色(ざつしき)が首に懸けさせたる布袋より入道相国の許文(ゆるしぶみ)取り出でて奉る。 |
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と名乗られると、基康は雑用人の首に掛けさせた布袋(ふぶくろ)から清盛入道の赦免状(しゃめんじょう)を取り出して渡した。 |
| これを開けて見給ふに、 |
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それを開けてご覧になると、 |
| 「重科(ぢゆうくわ)は遠流(をんる)に免ず。早く帰洛(きらく)の思ひをなすべし。今度中宮御産(ごさん)の御祈(おんいのり)によつて非常の赦(しや)行はる。然(しか)る間、鬼界島の流人少将成経、康頼法師赦免」 |
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「重罪は流罪(るざい)によって許す。早く京へ帰る支度をせよ。このたび中宮の安産祈願のため、特別の恩赦(おんしゃ)がある。よって、鬼界(きかい)が島の流人(るにん)、少将成経と康頼法師を赦免とする」 |
| とばかり書かれて、俊寛といふ文字はなし。礼紙にぞあるらんとて礼紙を見るにも見えず。奥へ読みけれども、二人とばかり書かれて、三人とは書かれず。 |
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とだけ書かれてあり、俊寛という文字はなかった。書状を包む礼紙(らいし)にでも書いてあるかと思って見てみたが、ない。奥へ読み進めても、二人とばかり書かれてあって、三人とは書かれていない。 |
| さるほどに、少将や康頼法師も出で来たり。少将の取つて見るにも、康頼法師が読みけるにも、二人とばかり書かれて、三人とは書かれざりけり。 |
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そのうちに、成経殿と康頼法師も戻ってきた。成経殿が手にして見ても、康頼法師が読んでも、二人とだけ書かれてあり、三人とは書かれていなかった。 |
| 夢にこそかかる事はあれ、夢かと思ひなさんとすれば現なり。現かと思へばまた夢の如(ごと)し。 |
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夢はときどきこういうことがある、これも夢かと思ってみたが、現実であった。現実かと思えば、また夢のようでもある。 |
| その上、二人の人々の許へは都より言伝たる文共幾(いく)らもありけれども、俊寛僧都の許(もと)へは事問ふ文一つもなし。されば我が縁の者共は、皆都の内に跡を留(とど)めずなりにけるよ、と思ひ遣(や)るにも覚束(おぼつか)なし。 |
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しかも、二人のところへは都からの言伝ての手紙がたくさんあるのに、俊寛僧都のところへは問い合わせの手紙ひとつない。さては、自分の縁者(えんじゃ)たちは誰も都にはいなくなってしまったのか、と考えると不安になった。 |
| 「抑(そもそ)も我等三人は同じ罪、配所(はいしよ)も同じ所なり。いかなれば赦免の時、二人は召し返されて、一人此処(ここ)に残るべき。平家の思ひ忘れかや、執筆の誤りか。こはいかにしつる事共ぞや」 |
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「そもそも我ら三人は同じ罪、配流(はいる)の地も同じだ。なのにどうして、赦免のときに二人は召し返され、自分ひとりをここに残すのか。平家の度忘れか、執筆(しゅひつ)の誤りか。いったいどういうことなんだ」 |
| と天に仰ぎ地に伏して、泣き悲しめどもかひぞなき。僧都、少将の袂にすがり、 |
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と、天を仰(あお)ぎ地に伏(ふ)して、泣き悲しんでみてもどうにもならない。俊寛僧都は少将成経の袂(たもと)にすがり、 |
| 「俊寛がかやうになるといふも、御辺(ごへん)の父故大納言殿の由(よし)なき謀反(むほん)の故(ゆゑ)なり。されば余所(よそ)の事と思ひ給ふべからず。許されなければ、都までこそ叶(かな)はずとも、せめてはこの舟に乗せて九国の地まで着けて給べ。各これにおはしつるほどこそ、春は燕、秋はたのもの雁のおとづるやうに、自づから故郷の事をも伝へ聞きつれ。今より後は何としてかは聞くべき」 |
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「私がこうなったのも、もとはと言えば、そなたの父・亡き大納言成親殿のつまらぬ謀反(むほん)のせいなのですぞ。だから他人事などとは思わないでいただきたい。許されないなら、都までは無理でも、せめてこの舟に乗せて九州の地まで連れていっていただきたい。これまでは二人がいらしたから、春は燕(つばくらめ)、秋はたのもの雁(かり)のおとずるように、自然と故郷の話を伝え聞くことができた。しかしこれから、どうやって知ったらよいというのか」 |
| とて悶(もだ)え焦(こ)がれ給ひけり。少将、 |
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と身悶(みもだ)えされた。成経殿は、 |
| 「まことにさこそは思し召され候ふらめ。我等が召し返さるる嬉しさもさる事にては候へども、御有様(ありさま)を見置奉(みおきたてまつ)るに、更(さら)に行くべき空も覚え候はず。この舟にうち乗せ奉りて上りたうは候へども、都の御使いかにも叶ふまじき由を頻(しき)りに申す。その上許されもなきに三人ながら島の内を出でたりなど聞え候はば、中々悪しう候ひなんず。成経まづ罷(まか)り上りて、人々にもよくよく申し合はせ、入道相国の気色(きしよく)をも窺(うかが)ひて、迎(むか)ひに人を奉らん。そのほどは日比(ひごろ)おはしつるやうに思ひなして待ち給へ。命はいかにも大切の事なれば、たとひこの瀬にこそ漏(も)れさせ給ふとも、つひにはなどか赦免なくて候ふべき」 |
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「そう思われるのも無理はありません。我らが召し返される嬉(うれ)しさはもちろんですが、あなたの様子を伺(うかが)っていると、とても置いて帰る気にはなれません。この舟にお乗せして帰りたいとは思うものの、都からの使者がどうしても無理だとしきりに言います。それに、お許しもないのに三人そろって島を出たなどと知られたら、却(かえ)って事態は悪化します。私がまず京へ帰って人々にもよく話し、清盛入道の機嫌(きげん)もうかがって、迎えの人を来させましょう。それまではいつものようなお気持ちでお待ちください。人の命は大切なものですから、たとえ赦免にお洩(も)れになっても、最後まで赦免がないなどということはないはずです」 |
| とやうやうに慰め宣へども、僧都堪(た）へ忍(しの)ぶべうも見え給はず。 |
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と、あれこれ慰(なぐさ)められたが、俊寛僧都はこらえきれない様子だった。 |
| さるほどに、舟出ださんとしければ、僧都舟に乗りては下りつ、下りては乗りつ、あらまし事をぞし給ひける。少将の形見には夜の衾(ふすま)、康頼入道が形見には一部の法華経をぞ留めける。 |
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そして、舟を出そうとすると、俊寛僧都は、舟に乗っては下り、下りては乗って、一緒に行きたげであった。成経殿は形見として寝具一揃(そろ)え、康頼入道は形見として一部の法華経(ほけきょう)を残された。 |
| 既(すで)に纜解いて舟押し出だせば、僧都綱に取り付き、腰になり脇になり、長の立つまでは引かれて出づ。長も及ばずなりければ、僧都舟に取り付き、 |
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艫綱(ともづな)を解いて舟を押し出すと、俊寛僧都は綱にしがみつき、海に腰まで浸かり脇まで浸かり、背の立つところまで引きずられていった。背も立たなくなると、僧都は舟にしがみつき、 |
| 「さて各(おのおの)俊寛をばつひに捨て果て給ふか。日比の情も今は何ならず、許されなければ、都までこそ叶はずとも、せめてこの舟に乗せて九国の地まで」 |
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「さては、みんな本当に私を捨てられるおつもりなのか。日頃の情けなど、もはやはなんにもならない、許されなければ、都は無理でも、せめてこの舟に乗せて九州まで連れていってほしい」 |
| と口説(くど)かれけれども、都の御使、 |
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と懇願(こんがん)されたが、都の使者は、 |
| 「いかにも叶ひ候ふまじ」 |
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「そんなことは到底(とうてい)できない」 |
| とて取り付き給へる手を引き除(の)けて、舟をばつひに漕ぎ出だす。 |
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としがみつかれた手を引きのけて、舟をついに漕(こ)ぎ出した。 |
| 僧都せん方なきに、渚に上がり倒れ臥し、幼き者の乳母や母などを慕ふやうに、足摺(あしず)りをして |
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俊寛僧都は仕方なく、渚(なぎさ)に上がって倒れ臥(ふ)し、幼子が乳母や母などを慕(した)うように、足をばたばたさせて |
| 「これ乗せて行け、具(ぐ)して行け」 |
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「やい乗せてけ、連れてけ」 |
| と喚(おめ)き叫(さけ)べども、漕ぎ行く舟の習(なら)ひにて、跡は白波ばかりなり。 |
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とわめき叫んだが、漕ぎ行く舟の常、跡に白波が残るばかりであった。 |
| 未だ遠からぬ舟なれども、涙に眩(く)れて見えざりければ、僧都高き所に登り上がり、沖の方をぞ招きける。かの松浦小夜姫が唐土舟(もろこしぶね)を慕ひつつ、領巾(ひれ)振りけんもこれには過ぎじとぞ見えし。 |
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舟はまだ遠ざからずにいたが、涙にくれて見えないので、俊寛僧都は高いところに登り、沖に向かって手招きをした。万葉集に現れる松浦小夜姫(まつらさよひめ)が、夫を乗せて去ってゆく唐船(からふね)を慕い領巾(ひれ)を振(ふ)ったのも、これには及ばないように見えた。 |
| さるほどに、舟も漕ぎ隠(かく)れ、日も暮れども、僧都賤(あや)しの臥所(ふしど)へも帰らず、波に足うち洗はせ、その夜は其処(そこ)にてぞ明かしける。さりとも少将は情深き人なれば、よきやうに申す事もや、と頼みをかけて、その瀬に身をも投げざりし心の内こそはかなけれ。昔壮里・息里(さうり・そくり)が海巌山へ放たれけん悲しみも、今こそ思ひ知られけれ。 |
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そして、舟影も見えなくなり、日も暮れたが、俊寛僧都は粗末な寝所へも帰らず、波に足を洗わせながら、そこで夜を明かした。しかし、成経殿は情深い人だから、うまく言ってくれるかもしれない、と頼みをかけて、海に身を投げずにいた心の内は哀(あわ)れであった。昔、天竺(てんじく)にいた幼い早離・速離兄弟が海巌山(かいがんさん)に捨てられた悲しみも、今しみじみと思い知られた。 |
