出家までの身の上 
原文 朗読  on  朗読  off 現代語訳
 若上(わかかみ)、父方(ちちかた)の祖母(おほば)の家を伝へて、久しく彼(か)の所に住む。その後、縁欠けて、身おとろへ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひにあととむる事をえず。三十(みそぢ)あまりにして、さらに、わが心と、一つの庵をむすぶ。
 
これをありしすまひにならぶるに、十分が一なり。居屋(ゐや)ばかりをかまへて、はかばかしく屋を作るに及ばず。わづかに築地(ついぢ)を築(つ)けりといへども、門(かど)を建つるたづきなし。竹を柱として車をやどせり。雷降り、風吹くごとに、あやふからずしもあらず。所、河原(かはら)近ければ、水難も深く、白波のおそれもさわがし。
 
すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、折り折りのたがひめ、おのづから短き運をさとりぬ。すなはち、五十(いそぢ)の春を迎へて、家を出で、世を背(そむ)けり。もとより、妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何につけてか執(しふ)をとどめむ。むなしく大原山の雲に臥(ふ)して、また五(いつ)かへりの春秋をなん経(へ)にける。

若い頃、父方の祖母の屋敷を継いで、長い間、その場所に住んでいた。その後、絶縁状態になって、立場が弱くなり、思い出の多い家ではあったが、とうとう、とどまることができなくなり、三十歳を過ぎて、改めて、自分の判断で、一つの庵を作った。
 
この庵を以前の住居と比べると、広さは十分の一である。寝起きする建物だけ作って、多くの棟を持つ立派な邸宅は作れなかった。なんとか土塀を築いたとはいうものの、門を建てる手段がない。竹を柱として車宿りを作った。雪が降ったり、風が吹いたりするたぴに、危険でないわけではない。場所が鴨川の河原に近いので、水害も深刻で、盗賊に襲われるおそれも大きい。
 
こうして、住みにくいこの世を耐えながら過ごしてきて、心を悩ましたことは、三十余年に及んだ。その間、再三のつまずきによって、自然と自分の不運を悟った。そこで、五十歳の春を迎えて、出家して、世を捨てた。もともと、妻子がないので、捨てにくい縁者もいない。自身に官位も俸禄もなく、この世に何の執着すべきものがあろうか。大原山の雲がかかる山中に何をするでもなく隠れ住み、実に五年の歳月が経ったのであった。
解説と鑑賞 関連する文学
●縁欠けて、身おとろへ…父・長継の死により祖母の家(菊家)の相続権を親族に奪われ、鴨氏一族とのつきあいもなくなった状態をいうのか。
●門(かど)を建つる…門は地位の象徴の一つ。三位以上と四位の参議が建てるのを許された。
●車宿り…牛車
(ぎっしゃ)や輿(こし)を入れておく建物だが、竹の柱というのはごく間に合わせのもの。
●河原…鴨川の通称。鴨川のどの流域に長明の住まいがあったかは不明。古来、水害の多い川だった。

●たがひめ…予定が狂うこと。挫折、行き違い。
●妻子…妻子がいたかは不明。父・長継の母の娘か孫かを妻として祖母の家に婿(むこ)に入ったのではないかという説もある。
●大原山…洛北
(京都市東北部)大原の地。寂光院の東にあたり、比叡山の横川にも近い。王朝期以来、良暹法師をはじめ隠棲者が住んだ山里で、歌枕でもある。
❶しのぶかたがた…「住みわびて われさへ軒の しのぶ草 しのぶかたがた しげき宿かな」(住んでいることがつらくて、私までも去って行くこの家の軒の忍ぶ草よ、その名ではないですが、しのび懐かしむ事がいろいろとあるこの家ですよ。)周防内侍「金葉和歌集」。藤原信実編「今物語」(鎌倉時代の説話集)によると、院政初期の歌人・周防内侍が家を手放して出る時に、家の柱に書き付けた歌で、その筆跡と旧宅は、建久頃(長明四十歳前後)まで残っていて、歌人たちが訪れる名所であったという。
「右の手も その面影も かはりぬる 我をば知るや みたらしの神」(川水で洗う右の手も、水面に映るその面影も、すっかり変わってしまったけれど、私だと分かってくださるのでしょうか、御手洗川の神よ。)出家後に賀茂社にお参りした時に長明が詠んだ歌。「続歌仙落書」
 
良暹法師の住んだ大原の里
出来事
1184年   【30歳】
父の祖母方の家を出て、賀茂川近くに自宅を建て転居
1185年7月【31歳】   元暦の大地震
1186年晩秋【32歳  伊勢・熊野に旅する。「伊勢記」
1187年   【33歳】   六条河原近くに自宅を建て、俊恵より歌学を学ぶ。
1201年   【47歳】   後鳥羽院に認められ和歌所の寄人に抜擢される。
1204年春 【50歳】   出家して大原に転居する。
方丈記の風景
法界寺裏手の山道を登ると 斜面から突き出た巨石が方丈石 
 
巨石の上の平らな部分に庵を建てた。 江戸時代に「長明方丈石」の石碑が建てられ、観光名所となる。