平 知盛
(たいらのとももり)
<登場する章段>
5の13
6の11
7の15・19
8の4・7・9・11
9の13・17
10の4
11の7・9・10
後白河法皇
 <プロフィール>
清盛の四男。母は平時子。兄宗盛が棟梁(とうりょう)となると、弟重衡とともに宗盛を補佐する。新中納言と称された。一ノ谷の戦いでは大将軍として生田の森に陣を敷くが敗北し、16歳の息子、知章(ともあきら)を失う。知盛は九州の兵を率いて門司関を固め、半年に渡って追討軍の九州・四国上陸を阻止する。しかし、壇ノ浦の戦いで、平氏の滅亡を見届けた後、乳母子(めのとご)と手を取り合って海へ身を投げ自害した。
<エピソード>
清盛は知盛に期待をかけたらしく25歳の頃「入道相国最愛の息子」(「玉葉」安元2年12月5日)と呼ばれている。また、愛馬の命を助ける、内裏(だいり)の警固(けいご)をしていた源氏の武将を故郷に帰すなど、情に厚いエピソードが記されている。常に兄宗盛と対比して描かれ、武勇だけでなく、洞察力(どうさつりょく)にも優れていた。「平家物語」では教盛・経盛兄弟がいかりを背負い入水したとあるが、浄瑠璃「義経千本桜」の二段目は、「碇知盛(いかりとももり)」と呼ばれ、知盛が碇(いかり)とともに入水する場面が有名である。能「船弁慶」では怨霊(おんりょう)として登場する。
 <名言> (生没年) 1152〜1184.3.24 
見るべき程の事は見つ。いまは自害せん
<意味>
もはや人々の最期などみとどけねばならぬ事は見終わった。今は自害しよう。
知盛は鎧二領を着て、かねてからの約束通り、乳母子の家長と手を組んで海に入った。
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