
(なすのよいち) |
<登場する章段>
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<プロフィール> |
下野国(しもつけのくに:栃木県)那須郡の住人。那須太郎資隆の子、宗隆。治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり、源義経に従軍した。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなどの功績を挙げ、源頼朝より丹波(たんば)・信濃(しなの)など5カ国に荘園を賜(たまわ)った。 |
<エピソード> |
幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆(きょうたん)させたという地元の伝承がある。また、治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古(けいこ)をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。弓の腕を上げようと修行を積み過ぎ、左右で腕の長さが変わってしまったとも伝えられている。明治時代以後は、「小学唱歌」や「小学国語読本」に登場し、那須与一物語として誰もが知っている英雄になった。 |
<名言> |
(生没年) 1169〜1189.9.19 |
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<意味>
これを射そこなうものなら、弓を切り折って自殺して、人に二度と顔をあわせることはできません。 |
与一の鏑矢は、扇のかなめ際から一寸ぐらい上を見事に射切った。その腕前を源平両軍がほめたたえた。 |
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