熊谷直実
(くまがえなおざね)
<登場する章段>

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 <プロフィール>
父直貞を早く亡くし、兄とともに母方の親族久下直光(くげなおみつ)に養育される。源義朝の配下であったが、義朝が破れると、平知盛に仕えていた。石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。一の谷合戦では先陣争いをし、平敦盛を討ち取る。後に家督を直家に譲り、建久4年(1193年)頃出家して法然上人の弟子となり、蓮生(れんしょう・れんせい)と号した。
<エピソード>
直実の出家については、「吾妻鏡(あづまかがみ)」に養父直貞との領地の境界争いで頼朝から度々尋問を受けたため、負けたと思って、武士の詰所でもとどりを切り、姿を消したとある。熊谷直実については歌舞伎「熊谷陣屋」がある。出身地埼玉県熊谷市の小学校の運動会では、「直実節」を踊ることがテレビで取り上げられた。兵庫県神戸市の須磨寺には、平敦盛の騎馬武者像と、それを呼び止める扇をかざした直実の騎馬武者像と平敦盛像がある。
 <名言>
あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかるうき目をばみるべき。
<意味>
ああ、弓矢を取る身ほど残念なものはない。武芸の家に生まれなければ、どうしてこのようにつらい目には会うことがあろう。
泣く泣く敦盛の首を斬ったことが仏門に入る原因となった。
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