平 清盛
(たいらのきよもり)
<登場する章段>

1の3・4・6・9・11
2の3・4・6・7
3の3・11・15
4の4・5
5の1・3・4・12・13・14
6の4・5・7・8・9・10
 <プロフィール>
平忠盛の長男として生まれ(ただし、白河院の子であるという説が有力)、武士としては初めて太政大臣に任せられる。保元の乱では後白河天皇方につき、平治の乱では源義朝を破り、都での軍事力を握った。日宋貿易によって通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てたが、平氏の独裁(どくさい)は貴族・寺社・武士から大きな反発を受ける。源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病のため64歳で没した。
<エピソード>
「平家物語」における非道、非情の描写から、清盛はおごり高ぶった暴君(ぼうくん)だというイメージが強いが、港の人柱をやめるなど、実際の清盛は温厚で情け深い人物だったとも言われている。「殿下乗合」で、清盛が藤原基房に仕返しをしたという話はうそで、実際に行ったのは重盛であり、清盛はむしろ基房に謝ったとされる。福原(今の神戸)を、交易を通じて第二の都として発展させようとしたことなど、先見性も高かった。清盛が熱病で悶え死んだことは、その当時都の話題になっていた。江戸時代の川柳に「清盛の医者は裸で脈を取り」「ゆで蛸(たこ)のやうに清盛苦しがり」がある。
 <名言>
やがて打手をつかはし、頼朝が首をはねて、わが墓のまへにかくべし。それぞ供養にてあらんずる
<意味>
すぐさま討手をつかわし、頼朝の首を斬って、私の墓の前にかけよ。それが何よりもの供養であろうぞ。
現世での望みは全て達せられたが、ただ一つの心残りは頼朝の首を見なかったことだ、と苦しい息の下で妻に遺言する。高倉上皇の死からわずか一カ月半の無念の死であった。
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