治承五年、宮中の正月行事は、東国の戦乱、奈良の戦火によって中止となり、不吉な空気が漂(ただよ)っていた。南都の高僧たちの処分が行われ、寺院は荒廃(こうはい)するばかりである。それでも鎮護(ちんご)国家を祈る法会(ほうえ)は、なんとか行われた。高倉上皇は、父後白河院の幽閉(ゆうへい)、高倉宮の謀反(むほん)などに心を悩(なや)ませ病気がちであったが、南都の滅亡(めつぼう)を聞いて重体となり、一月十四日、二十一歳の若さで亡くなった。
<原文> 治承五年正月一日、内裏には、東国の兵革、南都の火災によつて、朝拝停められ、主上出御もなし。物の音も吹き鳴らさず、舞楽も奏せず。
二日、殿上の宴酔もなし。吉野の葛も参らず、藤氏の公卿一人も参ぜられず。氏寺焼失によつてなり。男女うちひそめて禁中いまいましうぞ見えし。仏法王法ともに尽きぬる事ぞあさましき。
法皇仰せなりけるは、「四代の帝王、思へば子なり、孫なり。いかなれば万機の政務を停められて、年月を送らん」とぞ御歎きありける。
同じき五日、南都の僧綱等闕官ぜられ、公請を停止し、所職を没収せらる。衆徒は老いたるも若きも、或いは射殺され、切り殺され、或いは煙の内を出でず、炎にむせんで多く滅びにしかば、わづかに残る輩は山林にまじはつて跡を留むる者一人もなし。
されでもその中に興福寺の別当花林院僧正永円は仏像経巻の煙とたちのぼらせ給ふを見参らせて、あなあさましと心をくだかれけるよりして、病ついて終に失せ給ひぬ。この僧正は優にやさしき人にておはしけり。ある時ほととぎすの鳴くを聞いて、
聞くたびにめづらしければ不如帰いつもは常の心地こそすれ
といふ歌を詠うでこそ、初音の僧正とは言はれ給ひけれ。
但し形の様にても御斎会はあるべきものをとて、僧名の沙汰ありしに、南都の僧綱等は闕官ぜられぬ。北京の僧綱をもつて行はるべきかと公卿詮議ありしかども、さればとて、南都をも捨てはてさせ給ふべきならねば、三論宗の学生生宝已講が勧修寺に忍びつつ、隠れゐたりけるを、召し出だして御斎会、形の如く行はる。
上皇は一昨年、法皇の鳥羽殿に押し籠められて渡らせ給ひし御事、去年高倉宮のうたれさせ給ひし御有様、さしもたやすからぬ天下の大事、都遷りなど申す事に、御悩つかせ給ひて、御煩はしう聞こえさせ給ひしが、東大寺、興福寺の滅びぬる由聞こしめして、御悩いとど重らせおはします。法皇なのめならず御歎きありけり。
同じき正月十四日、六波羅池殿にして新院遂に崩御なりぬ。
御宇十二年、徳政線万端、詩書仁義の廃れたる道を興し、理世安楽の絶えたる跡を継ぎ給ふ。三明六通の羅漢も免れ給はず、幻術変化の権者も遁れ給はぬ道なれば、有為無常の習ひなれども、理過ぎてぞおぼえける。
やがてその夜、東山の麓、清閑寺へ遷し奉り、夕べの煙にたぐへて、春の霞とのぼらせ給ひぬ。澄憲法印、御葬送に参りあはんとて、急ぎ山より下られけるが、はや空しき煙と立ちのぼらせ給ふを見参らせて、泣く泣くかうぞ詠じ給ひける。
常に見し君が御幸をけふとへばかへらぬ旅と聞くぞ悲しき
またある女房の、帝隠れさせ給ひぬと承つて、泣く泣く思ひ続けけり。
雲の上に行くすゑ遠く見し月の光消えぬと聞くぞ悲しき
御歳二十一、内には十戒を保つて慈悲を先とし、外には五常を濫らせ給はず、礼儀を正しうせさせおはします。末代の賢王にてましましければ、世の惜しみ奉る事、月日の光を失へるがごとし。かやうに人の願ひもかなはず、民の果報もつたなき人間の境こそ悲しけれ。