百人一首検定    解説 Close this page

百人一首検定、合格できましたか。おさらいをしておきましょう。

番号 解 説
1  「『いつまでも忘れない』というあなたの言葉が、遠い将来まで変わらないというのは難しいでしょう。だから、その言葉を聞いた今日を限りに命が尽きてしまえばいいのに」という歌です。
2  「源氏物語」は光源氏を主人公とした恋愛小説です。全54巻、400字詰原稿用紙で2000枚の量にあたります。当時から評判で、「源氏物語」を真似たと思われる物語がたくさん作られました。
3  「この世の中には、悲しみや辛さを逃れる道はないものだなあ。思いつめて分け入ったこの山の奥でも、悲しそうに鹿が鳴いているようだ。」とあるように、友人たちが次々と出家していく中で、自分は俗世で行き抜いて和歌の道を究めようと決意した歌なのです。
4  「さねかずら」はもくれんの仲間のつる草で、昔は茎を煮て整髪料を作ったので、美男葛(びなんかずら)と呼ばれていました。「逢坂山に生えているさねかずらのつるを巻き取って引っ張れば、ツタの先に恋しいあの人がついてきたらなあ」と歌っています。
5  「せ」で始まる歌は崇徳院の「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 」です。「川の瀬の流れが速いので、岩にせきとめられ、急流が2つに分かれてもやがては1つになるように、今はあなたと別れても、いつかはきっとお逢いしようと思います」という恋の歌です。
6  「ぞ」は強意の係助詞で、「季節の中で冬が一番」というような意味になります。他の季節よりずっと、という意味です。「山里は、他の季節よりずっと、冬になると寂しさが身にしみて感じられることだ。」と係り結びで強調しています。
7  「にわか雨が通り過ぎて、その露もまだ乾いていない真木(まき:杉・ひのき・まき)の葉のあたりに、霧がほの白く立ちのぼっている秋の夕暮れであるよ」と、時の移り変わりを、「雨」「露」「霧」という自然現象の変化によってとらえています。
8  「人」とは永遠の愛を神に誓いながら、自分を捨てた男のことです。平安時代には、誓いを破ったら罰(ばち)があたって命を落とすと信じられていました。神罰を受けて命を落とすあなたの身が心配なのですと詠っています。
9  「ふりゆく」は桜の花びらが「降りゆく」のと、作者自身が「古りゆく(老いてゆく)」のとの掛詞です。「まるで雪のように降ってゆくものは、実は老いて古(ふ)りゆくわが身なのだなあ」と桜の花が雪のように舞い散る風景に、自分の人生を重ねた対比が見事です。
10  「ほさぬ袖」は、いつも泣いて涙をふいているので「濡れた袖・乾くひまもない袖」という意味です。「涙にぬれて乾く間もない袖が朽ちてしまうことさえ惜しいのに、さらに、この恋のうわさで私の評判が落ちることが惜まれてならないのです」と詠っています。
11  「もうすぐ私は死んでしまうでしょう。せめてあの世へ持っていく思い出として、今もう一度だけあなたにお逢いしたいのです。」という和泉式部の辞世ともいうべき歌です。
12  「逢ふ」も「見る」も、男女が逢瀬を遂げたり、契りを結ぶ意味で使われる動詞です。「あなたと契りを結んだ後のこのせつなさに比べれば、お逢いする前の悩みなど、何とも思っていないのと同じです。」という意味の歌です。
13  「一節(ひとよ)」は、芦の茎の節から節の間のことで、短いことを表しています。「難波の入り江の芦の刈り根の一節のような、たった一夜だけの仮寝(かりね)のために、澪標(みおつくし)のように、この身を尽くして恋し続けなくてはならないのでしょうか。」というように、旅の宿での一夜限りの恋をせつなく詠っています。
14  「一度契りを結んだ今は、あなたを愛するためになるべく長く生きていたいと願うようになりました」と詠んだ義孝ですが、大流行した痘瘡(ほうそう:天然痘)にかかってわずか21歳の若さで死去しました。
15  「宇治拾遺集」には朝忠が大男の大食漢で、立つことも座ることも苦しいほど太っていたそうです。医者に相談したら「冬は湯漬け、夏は水漬けを食べれば痩せられる」と言われましたが、効果がなかったという話が残されています。
16  「願わくば 花の下にて春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ」(願いがかなうならば、桜の花の下で春に死にたい、二月十五日の満月のころに)と詠んだように、文治6年(1190)2月16日に河内の弘川寺で亡くなった話は有名です。
17  「今晩行くよ」と約束しながらやって来なかった男のもとに、その翌朝、姉妹に代わって詠み送った歌です。「月を眺めながら一晩過ごしてしまいました」と、恋人の言葉を信じて待ち続けた女のせつなさがさりげなく伝わる表現をしています。
18  「私がお前をなつかしく思うように、お前も私をなつかしく思っておくれ、山桜よ。この山奥ではお前以外に、私の心を分かってくれる友はいないのだから」という内容の歌です。たった一人で厳しい修行に耐えている時、見つけた桜に呼びかけたのです。
19  「私のことをかわいそうにとあわれんでくれるはずの人も思い浮かばないまま、私はあなたに恋こがれながらむなしく死んでしまいそうです。」と、つれない恋人に伝えた歌です。
20  「私の袖は、引き潮の時にも海中に隠れて見えない沖の石のように、誰に知られることもないでしょうが、恋の涙で乾く間もないのです。」の歌は、当時から大評判となり、以後彼女は「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになりました。
21  「私の命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえていると、耐え忍ぶ心が弱ってこの思いを隠すことができなくなってしまうといけないから。」という式子内親王の歌です。後世、定家との恋愛物語が創作されましたが、秘めた恋人がいたのかは不明です。
22  「秋の名月を見ていると、、いろいろな想いが心に浮かび、悲しみがあふれてくる。秋が私一人だけに訪れたわけではないのだけれど。」という歌です。「秋は悲しい」という感覚が平安時代に一般化したようで、その代表的な歌です。
23  「秋風に吹かれ、たなびく雲の切れ目から、洩れてくる月の光の、なんと明るく澄みきっていることよ。」と、秋の夜空を流れていく細い雲の隙間から洩れてくる月光の澄みわたった美しさをありのままに描いています。
24  「人間がいとおしくも、また恨めしくも思われる。つまらない世の中だと思うゆえに、思い悩んでしまう私には」と詠んだ後鳥羽院は、貴族社会の復権を強く望み挙兵しましたが、北条義時に大敗して隠岐へ流罪となりました。
25  「袖の色が変わる」というのは、涙が枯れて血の涙が出るほど激しく泣いたことを暗示しています。ちなみに「血涙・紅涙」というのは、中国の漢詩から来た言葉です。ひどく悲しいときに流す涙のことで、恋のつらさを表現すのによく用いられました。
26  「難波潟みじかき芦のふしの間も あはでこの世を過ぐしてよとや」という伊勢の歌は、難波潟に生える芦の、節と節の間ほどの短い時間でさえ逢ってくれない男を恨んだ歌です。
27  「年老いた私は、いったい誰を親しい友人としようか。あの長寿の高砂の松でさえ、昔からの友人ではないのだから。」という意味です。。若い頃の定家はそれほどこの歌に感心しなかったようですが、百人一首を選定した74歳の頃には、共感したようです。
28  「波の荒い由良(ゆら)の海峡(かいきょう)を渡る船乗りが、櫂(かい)をなくして行く先も分からずに漂うように、先が分からない私の恋であることよ。」と、流される舟の情景と、恋の道に迷う不安や危うさを重ねています。
29  「網代」は氷魚(ひお:あゆの稚魚)をとるためのしかけです。宇治川の浅瀬に沿って、ずらりと並ぶ杭に網代をかけた風景は、冬の風物詩として知られています。夜明けとともに川霧が次第に薄らいでいき、水面に網代木の列が次々に見え始めるという、早朝の景色が見事に描かれています。
30  「里に近い山の桜は散ってしまい、もう山の峰にしか残っていません。遠くの山頂に咲く桜を心ゆくまで見ていたいから、近くの山の霞よ、どうかたたないでおくれ」と呼びかけた歌です。
31  70、80歳になるまで、毎月、京都から大阪の住吉神社まで徒歩で参詣して、よい歌が詠めますようにとお願いをしていました。また、年を取って耳が遠くなっても歌会に出て、講師のそばで聞き耳を立てて講評を熱心に聞いていたそうです。
32  80歳で亡くなるまで生涯に6万首(現存するものは三千首ほど)もの歌を詠みました。定家の技巧的な歌風とは対照的で、わかりやすい内容を、素直にのびやかに詠む歌風でした。定家とはお互いの歌を認め合う仲で、終生変わらぬ友だちでした。
33  あこがれていた陸奥(みちのく)の景色を楽しむため、屋敷の庭園を陸奥の塩竃(しおがま)の浦そっくりに作りました。毎日難波(なにわ)の浦から海水20石を運ばせ、塩を焼かせ、藻汐(もしお)の煙の立つ夕べのわびしさを鑑賞したそうです。
34  朝になって恋人が帰った後、「いつまでも末長くあなたのことが好きですよ」と言った男の言葉はどこまで本当なのかと、心乱れて思い悩む女性の姿を詠っています。
35  ある場所で暮らし始めたという意味の「住み初め」の掛詞になっています。僧侶にも位があり、その最高位が大僧正です。百人一首に歌が選ばれている大僧正は慈円と行尊です。
36  陰暦の9月のことです。菊月ともいいます。、「すぐに行くよ」という男の言葉を信じて、秋の夜長を待ち続け、夜明けまで空に残っている月を見てしまったという歌です。
37  歌の意味は、「いつの間にか春が過ぎて、夏がやってきたらしい。夏になると真っ白な衣を干すといわれている天の香具山に。」です。夏の訪れが山の緑と布の白で象徴されています。
38  歌のことで口論となり(恋愛が原因という説もあります)、行成の冠を庭に投げ捨てた、または扇で打ち落としたといいます。任地で乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって40歳ほどで亡くなったそうですが、死後、雀になって清涼殿に飛んで来て、宮中の米を食べ荒したという伝説があります。
39  鎌倉幕府三代将軍の源実朝は、1219年正月、参賀に訪れた鶴岡八幡宮で、甥の公暁(くぎょう)に暗殺されました。14歳の時に定家から「新古今集」を贈られたのをきっかけに、手紙でやり取りをしながら和歌の指導を受けました。万葉風の独自の歌風は、後世、高く評価されました。
40  河原左大臣は、京都の東六条、鴨川(かもがわ)のほとりに河原院という豪華な別荘を造り、評判になりました。あこがれていた陸奥(みちのく)の景色を楽しむため、屋敷の庭園を塩竃(しおがま)の浦そっくりに作りましたが、百年ほど経って荒れ果て、ひ孫にあたる安法(あんぽう)法師が住んでいました。
41  紀伊は、俊忠の歌に対して「音にきく 高師の浜の あだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ」 の歌を詠みました。あなたの誘いにうっかり乗って恋の涙にぬれて嘆く女にはなりませんよとやりかえす内容です。歌枕、掛詞、縁語で応じた恋のベテランらしい見事な歌でこの勝負に勝ちました。
42  きりぎりすはこおろぎのことです。今、きりぎりすとよぶ虫は、昔は「はたおり」と呼んでしました。こおろぎが弱々しく鳴いている晩秋の肌寒い夜、独り寝る寂しさが描かれています。
43  小式部は、「母がいる丹波の国は遠いので行ったことはないし、母からの手紙も見ていません」と見事に歌で切り返したのです。定頼は即座に返歌ができず逃げてしまいました。その場にいた公卿や女官たちは小式部の才能に感嘆したそうです。
44  これだけ明けるのが早いと、月は西の山の端まで帰ることはできないだろう。空の雲のどのあたりに宿をとったのだろうかと、空を行く旅人に見立てて月を擬人化しています。
45  衣を打つ砧(きぬた)の音が寒々と聞こえてくる情景です。砧は「きぬいた(衣板)」の音変化。木や石の台に置いて、布を木槌(きづち)で打って柔らかくしたり、つやを出したりする作業です。夜更けにトントンと響く音を「衣うつなり」で表現しています。
46  残念ながら大伴黒主は選ばれていません。「古今集」から彼の歌を一首紹介します。「春雨の 降るは涙か 桜花 散るを惜しまぬ 人しなければ」(桜の花の散るのを見て、それを惜しまぬ人はいないのだから、春雨が降るのはそれを悲しむ人の涙が雨になったものであろうか。)
47  女性と一夜を過ごし、自分の家へ戻って、この歌を詠みました。夜が明けてしまえば、日は必ず暮れてまた逢えると分かっていても、離れ離れで過ごす日暮れまでの時間は、果てしなく長く感じられるという思いを詠っています。
48  父・三条院は、当子に厳しい見張りを付け、道雅と逢わせないようにしました。「あきらめるにせよ、せめて会って私の口から別れを伝えたい」という切実な思いが伝わる歌です。この後、当子は尼となって数年後に亡くなり、道雅は出世の望みもなく、すさんだ人生を送ったそうです。
49  奈良=7、八重=8、九重=9という数字遊びのほかに、「京都」と「奈良」の対比、「現在」と「過去」の対比、「けふ」には「今日」と「京」の意味を重ね、「ここのへ」は「九重」と「宮中」の意味が重ねられています。
50  はるかな水平線のかなたで白雲の立つ大空と、沖の白波とが紛れて一つになる情景を詠っています。調べがおおらかで、はてしない海の広がりを感じさせる雄大な歌です。
51  富士市のふじのくに田子の浦みなと公園には、百人一首の歌のもととなった赤人の万葉歌碑があります。「万葉集」にある「富士山を望む歌」の長歌と短歌を石柱8本に刻み、富士山型に配した立派な歌碑です。
52  ほととぎすはとても動くのが速く、振り返った瞬間、もうその姿はそこにはいなかった、という一瞬の視線の動きと、後に残った明け方の月がしみじみとした余韻を感じさせる歌です。平安時代には、ほととぎすの第一声(初音)を聴くのは風流なことだとされていました。
53  昔は「花」と言えば「桜」を指しました。百人一首には六首の桜の花の歌があります。友則の歌は、「こんなにのどかな春の一日なのに、花びらは落ち着いた心もなく、どうしてあわただしく散っていくのか」という歌です。
54  逢坂の関は、山城国と近江国の国境となっていた関所です。東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂の関を越えるため、交通の要となる重要な関でした。現在、逢坂の関記念公園には2人の歌碑「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 」「夜をこめて 鳥のそら音(ね)は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 」があります。
55  安倍仲麿は遣唐留学生として16歳で中国に渡り、その才能を認められて、玄宗(げんそう)皇帝に仕えた人です。帰国を決意した55歳の時、その送別会で詠んだ歌には、春日山の月を思い出し、故郷を懐(なつ)かしむ思いがこめられています。
56  一番鶏が鳴くまで開かない函谷関の関所を、部下に鶏の鳴きまねをさせて開けさせたという話をふまえています。誘いをかけてきた藤原行成に対して、「鶏の鳴きまねで開けた函谷関ならともかく、この逢坂の関は絶対開きませんよ。(あなたと恋愛関係にはなりませんよ)」という意味の歌を返したのです。
57  因幡(いなば)は現在の鳥取県東部です。都から遠く離れた地方都市へ赴任することになった行平は、「松の名のように、あなた方が私の帰りを『待つ』というのを聞いたならば、すぐにでも帰ってきましょう。」と、都への断ちがたい思いを歌に詠みました。いなばの山は因幡の国庁近くにある稲羽山です。
58  因幡(いなば)は現在の鳥取県東部です。都から遠く離れた地方都市へ赴任することになった行平は、「松の名のように、あなた方が私の帰りを『待つ』というのを聞いたならば、すぐにでも帰ってきましょう。」と、都への断ちがたい思いを歌に詠みました。いなばの山は因幡の国庁近くにある稲羽山です。
59  宇治茶は静岡茶とともに「日本二大茶」ともいわれています。喜撰法師の歌「私の庵は都の東南にあって、このように心静かに暮らしているというのに、世間の人々は世を憂(う)しと思って住む宇治山だと、言っているようだ。」からお茶の銘柄になりました。高級宇治茶を「上喜撰」といったりしています。
60  永遠に続くと思われた貴族の栄華も今はなく、かつて栄えた内裏の屋根にもノキシノブが伸びるほど荒れ果てた様子だと詠んだ順徳院です。25歳の時、父の後鳥羽院と倒幕を計った「承久の乱」に敗れ、順徳院は佐渡へ流されました。
61  延喜5年(905年)3月2日、宮中の蹴鞠の会で、206度も連足で蹴って一つも落とさないという活躍でした。感激した醍醐天皇から絹の褒美(ほうび)を賜ったという話が伝わっています。(「西宮記」) 
   
62  歌への強い情熱を伝えるものとして、うがいをしてから歌を詠み、手を洗ってから歌書を見たという話、錦の袋に入れていた鉋屑(かんなくず)を人に見せて、「これは有名な歌枕である長柄(ながら)の橋を作った時のものだ」と自慢した話などが知られています。 
                   
63  我が国最初の日記文学「土佐日記」は、土佐守の任を終えて都に帰るときの旅の様子を一人の女性に託してひらがなで書いた日記です。任地で亡くしたわが子への思いがあふれています。
64  海藻から採る塩のことです。藻塩草という海藻に海水をかけて数日間干し、乾いたところで火で焼きます。そして水に溶かし、煮詰めて塩を精製しました。火の中で燃えて身を焦がす海藻(藻塩)の姿と、恋人を待ちこがれる少女の姿を重ねています。
65  漢字の「山」と「風」を組み合わせると「嵐」になります。この歌はそうした言葉遊びを取り入れながら、山を転がり落ちてくる晩秋の激しい風の様子を鮮やかにイメージさせました。
66  技巧の冴えた兼盛の歌に負けましたが、歌合の判者だった藤原実頼も「右(忠見)の歌、はなはだよし」と心の中では思っていたようです。後世、飾らない素直な詠みぶりの忠見の歌をほめる者が後を絶たなかったといいます。
67  菊は中国から奈良時代に輸入された花で、宮中や貴族の庭に植えられる貴重な花でした。日本人は平安初期にまず菊の漢詩を詠むようになり、「古今集」以後和歌に詠まれるようになりました。初霜と白菊の透き通るような白のイメージは幻想的です。
68  宮中には数多くの門があり、それを警護していたのが、御垣守です。夜は恋人との逢瀬に心を燃やし、昼は相手のことが頭から離れずぬけがらのようになって思い悩む様子を、衛士がたくかがり火に例えています。
69  京都の嵐山にある大覚寺です。昔は嵯峨上皇の離宮でした。この歌を詠んだ藤原公任の時代には滝は枯れており、昔をしのんで歌ったものです。しかし、歌が有名になったことで「名古曽(なこそ)の滝」と呼ばれるようになり、現代まで伝わる滝となったわけです。
70  京都市右京区嵯峨にある紅葉の美しい名所です。大堰川を挟んで嵐山と向かい合う山で、ふもとに定家の別荘、「小倉山荘」がありました。現在、常寂光院の境内にはこの歌、「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」の歌碑があります。
71  興福寺の僧であった息子を維摩経(ゆいまきょう)の講師(経を読む役)に選んでほしいと、主催者の長である藤原忠通(ただみち)に頼んでいたのですが、今年も選ばれませんでした。「約束したのに、ああ、今年の秋もむなしく過ぎていくのか」という嘆きを歌にしたのです。
72  結句を「秋の夕暮」と体言止めにする手法は、「新古今集」で流行し、枯れゆくような寂寥感(せきりょうかん)を美しいとする感覚が大切にされました。その代表として有名なのが寂蓮・西行・定家の「三夕(さんせき)の歌」です。 
73  兼盛 の「しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで」が勝利しました。どちらも名歌だったため、判者が困ってしまったのですが、天皇が兼盛の歌を口ずさんだことで勝ちとなったといいます。それを知らされた兼盛は、躍り上がって喜んだそうです。
74  遣唐大使・藤原常嗣の船に故障(漏水)が見つかり、篁の船と交換されてしまいます。朝廷に抗議しても聞き入れられなかったため、、仮病を使って乗船せず、遣唐使を批判する漢詩まで作ったので天皇の怒りにふれ、隠岐に流されました。「わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」は隠岐に 向かう時に詠んだ歌です。
75  細かった川の流れが峰から里に下るにつれて太く強い流れになり、やがて深い淵となる様子と、恋心が次第につのっていく様子を重ねあわせて表現しています。陽成院の恋の歌です。
76  山鳥はキジ科の野鳥で、雄は全長120㎝前後で、自分の体より長い尾を持っています。そのため「長いこと」を表す時に使われます。山鳥は、昼は雄と雌(めす)が一緒にいて、夜になると峰(みね)をへだてて別々に寝ると考えられていたので、恋しい人を思いながらひとり寝をする時の表現に使われました。
77  鹿と紅葉の取り合わせは奈良の昔からの定番テーマだったようで、歌に詠まれています。秋には、雄の鹿が雌(めす)を求めて鳴くとされており、鹿の鳴き声を聞くときは、とりわけ秋が悲しく感じると作者は詠んでいます。
78  実方の死後も東北にとどまり、長保2年(1000)に60歳余りで亡くなりました。「風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな 」の歌が百人一首に選ばれています。
79  若い頃から父とは不仲で、「過去の辛かった思い出も今は懐かしいのだから、今の辛さも、生きていれば、将来懐かしく思えることがあるだろう」と、自分を慰める気持ちを詠んでいます。しかし、父も晩年には清輔の歌才を認め、歌道の名家六条藤家の後継者として認めました。
80  周防内侍が「枕がほしい」とつぶやくと、忠家が、「これを枕にどうぞ」と言って自分の腕を御簾の下から差し入れてきたのです。「私と一緒に一夜を明かしませんか。」とからかったのです。周防は恋の浮名が立ったら口惜しいからと歌で誘いを断りました。
81  習慣的に一定の言葉の前におく五音節または四音節の修飾語で、語調を整える言葉です。曲で例えるならイントロのようなもので、次に来る言葉を連想させる前置きです。百人一首に出てくる枕詞は、他に「しろたへの」「あしひきの」「ひさかたの」があります。
82  新春に若菜を食べると長生きする、と信じられてきました。春の七草はセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ(カブ)、スズシロ(ダイコン)です。光孝天皇が若い頃、大切な人の健康を祈って春の野草を贈った時に添えた歌です。
83  親子2代で百人一首に選ばれている人はいますが、3代にわたって選ばれているのはこの3人だけです。経信「夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く 」・俊頼「うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを 」・俊恵「夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり 」
84  須磨に隠退した光源氏が「友千鳥 もろ声に鳴く 暁は ひとり寝覚めの 床もたのもし」(千鳥の群れが声を合わせて鳴く暁は、たった一人で目を覚まし寂しい寝床にいる私も、心丈夫に思われる)と詠んだのをふまえ、わびしい関守の心情を思いやって詠っています。
85  誓いを破り心変わりをしてしまった女性に対して、「あんなに固く約束したのに」と責めながら、どこか悲しげです。「あの誓いを思い出して、もう一度戻ってきてほしい」という切ない心の声が感じられる歌です。
86  浅茅生とは、浅く(まばらに)、茅(ちがや)の生えている場所のことです。茅は笹のように細い葉が生える植物で、昔はご飯をこの葉で巻いて携帯したので「茅巻(ちまき)」という名前がつきました。
87  中国の七夕伝説では、7月7日の七夕の夜、年に一度だけ、たくさんのかささぎが天の川に翼(つばさ)を広げて橋をかけ、織り姫の元へ彦星(ひこぼし)が渡って行けるようにしたそうです。
88  定家は、朝に別れる恋人の心情を詠んだものと解釈しました。「暁」は今の午前3時から日の出までの時間帯です。その時間は、女性のもとから男性が家に帰る時刻でもありました。
89  天智天皇を祀って昭和1(1940)年に滋賀県大津市に建立された近江神宮は、百人一首の一首目が天智天皇の歌であることから「かるたの殿堂」として知られ、アニメ「ちはやふる」の舞台にもなりました。夏には「全国高等学校かるた選手権大会」が開催されます。境内には天智天皇の歌碑があります。
90  病気で退位を決意された時、明るく輝く月を見て詠んだ歌です。「心ならずも、このはかない現世に生きながらえていたなら、きっと恋しく思い出されるに違いない、この夜更けの月であることよ。」の歌は、藤原道長から退位を迫られ、人生の不遇を嘆いた歌です。
91  父の藤原宣孝(のぶたか)は2歳の時に急死しており、父の顔を知らずに育ちました。母の紫式部は新しい夫を持とうとはせず、娘を深くいつくしみ、学問や教養を身につけさせました。母と同じように一条天皇の中宮彰子に仕えました。
92  風が吹いて、散り落ちた紅葉が岩の間でせき止められて重なり合い、流れきらずに集まっている様子は、まるで風が作った堰(せき)止め用の柵(しがらみ)のようですと、風を擬人化して例えています。
93  平安時代、夢には特別の意味がありました。自分の見た夢で吉凶を占うことも普通に行われていました。恋する相手が自分の夢の中にたくさん出てくるほど、相手が自分のことを好きなのだ、と思われていました。
94  平安時代には、観音様が広く信じられていました。特に、大和国初瀬(現在の奈良県桜井市)の長谷(はせ)寺は参拝する人が絶えなかったようです。歌は「つれないあの人が、私になびくようにと、初瀬の観音様にお祈りをしたのに。初瀬の山おろしよ、お前のように、ひどくなれとは祈らなかったのに。」という意味です。
95  平安時代はいくつもの真珠に穴を開けて緒に通して、アクセサリーとして大切にしました。風に吹き散らされて翔ぶ草の露を、真珠のネックレスの緒がほどけて飛び散った様子に例えています。
96  平安美人の条件とは、色白の肌と、長くて豊かな黒髪でした。絵巻物に描かれた美人の顔立ちは、下ぶくれの顔に細い目、低く小さな鼻のようです。
97  翌朝、盛りを過ぎた菊一輪にこの歌を託して兼家のもとに届けさせました。花の色の移ろいに、夫の心変わりをほのめかせ、「一人で待つ身のつらさが分からないでしょうね」と浮気を責める気持ちを歌にこめたのです。
98  和歌・漢詩・管弦(琵琶の名手)に優れ、藤原公任と並び「三船の才」と称えられました。白河院が大堰川に遊んだ時、漢詩・和歌・管弦の船を用意して、その道の達人を乗せました。経信は管弦の船に乗り、漢詩と和歌を白河院に献上して、自分の才能をアピールしたという話が残っています。
99  和歌において、ある言葉を導きだすための、前置きの言葉を序詞と言います。枕詞と似ていますが、枕詞は五音が原則で、「あしひきの→山」というように固定的な語句をいうのに対して、序詞は枕詞より長いのが普通です。また決まった語句があるわけではありません。
100  澪漂は船の通り道を示すために立てた標識の杭(くい)です。港や河岸の深いところに立てます。大阪市の市章になっています。