百人一首クイズ7  <雑旅別編B> 解説 Close this page

雑旅別Aの和歌クイズ、いかがでしたか。おさらいをしておきましょう。

番号 解 説
 一番鶏が鳴くまで開かない函谷関の関所を、部下に鶏の鳴きまねをさせて開けさせたという話をふまえています。誘いをかけてきた藤原行成に対して、「鶏の鳴きまねで開けた函谷関ならともかく、この逢坂の関は絶対開きませんよ。(あなたと恋愛関係にはなりませんよ)」という意味の歌を返したのです。
 「私がお前をなつかしく思うように、お前も私をなつかしく思っておくれ、山桜よ。この山奥ではお前以外に、私の心を分かってくれる友はいないのだから」という内容の歌です。たった一人で厳しい修行に耐えている時、見つけた桜に呼びかけたのです。
 病気で退位を決意された時、明るく輝く月を見て詠んだ歌です。「心ならずも、このはかない現世に生きながらえていたなら、きっと恋しく思い出されるに違いない、この夜更けの月であることよ。」の歌は、藤原道長から退位を迫られ、人生の不遇を嘆いた歌です。
 はるかな水平線のかなたで白雲の立つ大空と、沖の白波とが紛れて一つになる情景を詠っています。調べがおおらかで、はてしない海の広がりを感じさせる雄大な歌です。
 「この世の中には、悲しみや辛さを逃れる道はないものだなあ。思いつめて分け入ったこの山の奥でも、悲しそうに鹿が鳴いているようだ。」とあるように、友人たちが次々と出家していく中で、自分は俗世で行き抜いて和歌の道を究めようと決意した歌なのです。
 若い頃から父とは不仲で、「過去の辛かった思い出も今は懐かしいのだから、今の辛さも、生きていれば、将来懐かしく思えることがあるだろう」と、自分を慰める気持ちを詠んでいます。しかし、父も晩年には清輔の歌才を認め、歌道の名家六条藤家の後継者として認めました。
 鎌倉幕府三代将軍の源実朝は、1219年正月、参賀に訪れた鶴岡八幡宮で、甥の公暁(くぎょう)に暗殺されました。14歳の時に定家から「新古今集」を贈られたのをきっかけに、手紙でやり取りをしながら和歌の指導を受けました。万葉風の独自の歌風は、後世、高く評価されました。
 ある場所で暮らし始めたという意味の「住み初め」の掛詞になっています。僧侶にも位があり、その最高位が大僧正です。百人一首に歌が選ばれている大僧正は慈円と行尊です。
 「ふりゆく」は桜の花びらが「降りゆく」のと、作者自身が「古りゆく(老いてゆく)」のとの掛詞です。「まるで雪のように降ってゆくものは、実は老いて古(ふ)りゆくわが身なのだなあ」と桜の花が雪のように舞い散る風景に、自分の人生を重ねた対比が見事です。
10  「人間がいとおしくも、また恨めしくも思われる。つまらない世の中だと思うゆえに、思い悩んでしまう私には」と詠んだ後鳥羽院は、貴族社会の復権を強く望み挙兵しましたが、北条義時に大敗して隠岐へ流罪となりました。
11  永遠に続くと思われた貴族の栄華も今はなく、かつて栄えた内裏の屋根にもノキシノブが伸びるほど荒れ果てた様子だと詠んだ順徳院です。25歳の時、父の後鳥羽院と倒幕を計った「承久の乱」に敗れ、順徳院は佐渡へ流されました。