百人一首クイズ6  <雑旅別編A> 解説 Close this page

雑旅別Aの和歌クイズ、いかがでしたか。おさらいをしておきましょう。

番号 解 説
 安倍仲麿は遣唐留学生として16歳で中国に渡り、その才能を認められて、玄宗(げんそう)皇帝に仕えた人です。帰国を決意した55歳の時、その送別会で詠んだ歌には、春日山の月を思い出し、故郷を懐(なつ)かしむ思いがこめられています。
 宇治茶は静岡茶とともに「日本二大茶」ともいわれています。喜撰法師の歌「私の庵は都の東南にあって、このように心静かに暮らしているというのに、世間の人々は世を憂(う)しと思って住む宇治山だと、言っているようだ。」からお茶の銘柄になりました。高級宇治茶を「上喜撰」といったりしています。
 逢坂の関は、山城国と近江国の国境となっていた関所です。東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂の関を越えるため、交通の要となる重要な関でした。現在、逢坂の関記念公園には2人の歌碑「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 」「夜をこめて 鳥のそら音(ね)は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 」があります。
 遣唐大使・藤原常嗣の船に故障(漏水)が見つかり、篁の船と交換されてしまいます。朝廷に抗議しても聞き入れられなかったため、、仮病を使って乗船せず、遣唐使を批判する漢詩まで作ったので天皇の怒りにふれ、隠岐に流されました。「わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」は隠岐に 向かう時に詠んだ歌です。
 残念ながら大伴黒主は選ばれていません。「古今集」から彼の歌を一首紹介します。「春雨の 降るは涙か 桜花 散るを惜しまぬ 人しなければ」(桜の花の散るのを見て、それを惜しまぬ人はいないのだから、春雨が降るのはそれを悲しむ人の涙が雨になったものであろうか。)
 因幡(いなば)は現在の鳥取県東部です。都から遠く離れた地方都市へ赴任することになった行平は、「松の名のように、あなた方が私の帰りを『待つ』というのを聞いたならば、すぐにでも帰ってきましょう。」と、都への断ちがたい思いを歌に詠みました。いなばの山は因幡の国庁近くにある稲羽山です。
 因幡(いなば)は現在の鳥取県東部です。都から遠く離れた地方都市へ赴任することになった行平は、「松の名のように、あなた方が私の帰りを『待つ』というのを聞いたならば、すぐにでも帰ってきましょう。」と、都への断ちがたい思いを歌に詠みました。いなばの山は因幡の国庁近くにある稲羽山です。
 京都市右京区嵯峨にある紅葉の美しい名所です。大堰川を挟んで嵐山と向かい合う山で、ふもとに定家の別荘、「小倉山荘」がありました。現在、常寂光院の境内にはこの歌、「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」の歌碑があります。
 「年老いた私は、いったい誰を親しい友人としようか。あの長寿の高砂の松でさえ、昔からの友人ではないのだから。」という意味です。。若い頃の定家はそれほどこの歌に感心しなかったようですが、百人一首を選定した74歳の頃には、共感したようです。
10  京都の嵐山にある大覚寺です。昔は嵯峨上皇の離宮でした。この歌を詠んだ藤原公任の時代には滝は枯れており、昔をしのんで歌ったものです。しかし、歌が有名になったことで「名古曽(なこそ)の滝」と呼ばれるようになり、現代まで伝わる滝となったわけです。
11  「源氏物語」は光源氏を主人公とした恋愛小説です。全54巻、400字詰原稿用紙で2000枚の量にあたります。当時から評判で、「源氏物語」を真似たと思われる物語がたくさん作られました。
12  小式部は、「母がいる丹波の国は遠いので行ったことはないし、母からの手紙も見ていません」と見事に歌で切り返したのです。定頼は即座に返歌ができず逃げてしまいました。その場にいた公卿や女官たちは小式部の才能に感嘆したそうです。