百人一首クイズ5  <恋編C> 解説 Close this page

恋編Cの和歌クイズ、出来はどうでしたか。おさらいをしておきましょう。

番号 解 説
 父・三条院は、当子に厳しい見張りを付け、道雅と逢わせないようにしました。「あきらめるにせよ、せめて会って私の口から別れを伝えたい」という切実な思いが伝わる歌です。この後、当子は尼となって数年後に亡くなり、道雅は出世の望みもなく、すさんだ人生を送ったそうです。
 「ほさぬ袖」は、いつも泣いて涙をふいているので「濡れた袖・乾くひまもない袖」という意味です。「涙にぬれて乾く間もない袖が朽ちてしまうことさえ惜しいのに、さらに、この恋のうわさで私の評判が落ちることが惜まれてならないのです」と詠っています。
 紀伊は、俊忠の歌に対して「音にきく 高師の浜の あだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ」 の歌を詠みました。あなたの誘いにうっかり乗って恋の涙にぬれて嘆く女にはなりませんよとやりかえす内容です。歌枕、掛詞、縁語で応じた恋のベテランらしい見事な歌でこの勝負に勝ちました。
 平安時代には、観音様が広く信じられていました。特に、大和国初瀬(現在の奈良県桜井市)の長谷(はせ)寺は参拝する人が絶えなかったようです。歌は「つれないあの人が、私になびくようにと、初瀬の観音様にお祈りをしたのに。初瀬の山おろしよ、お前のように、ひどくなれとは祈らなかったのに。」という意味です。
 「せ」で始まる歌は崇徳院の「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 」です。「川の瀬の流れが速いので、岩にせきとめられ、急流が2つに分かれてもやがては1つになるように、今はあなたと別れても、いつかはきっとお逢いしようと思います」という恋の歌です。
 朝になって恋人が帰った後、「いつまでも末長くあなたのことが好きですよ」と言った男の言葉はどこまで本当なのかと、心乱れて思い悩む女性の姿を詠っています。
 70、80歳になるまで、毎月、京都から大阪の住吉神社まで徒歩で参詣して、よい歌が詠めますようにとお願いをしていました。また、年を取って耳が遠くなっても歌会に出て、講師のそばで聞き耳を立てて講評を熱心に聞いていたそうです。
 親子2代で百人一首に選ばれている人はいますが、3代にわたって選ばれているのはこの3人だけです。経信「夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く 」・俊頼「うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを 」・俊恵「夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり 」
 「願わくば 花の下にて春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ」(願いがかなうならば、桜の花の下で春に死にたい、二月十五日の満月のころに)と詠んだように、文治6年(1190)2月16日に河内の弘川寺で亡くなった話は有名です。
10  「一節(ひとよ)」は、芦の茎の節から節の間のことで、短いことを表しています。「難波の入り江の芦の刈り根の一節のような、たった一夜だけの仮寝(かりね)のために、澪標(みおつくし)のように、この身を尽くして恋し続けなくてはならないのでしょうか。」というように、旅の宿での一夜限りの恋をせつなく詠っています。
11  「私の命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえていると、耐え忍ぶ心が弱ってこの思いを隠すことができなくなってしまうといけないから。」という式子内親王の歌です。後世、定家との恋愛物語が創作されましたが、秘めた恋人がいたのかは不明です。
12  「袖の色が変わる」というのは、涙が枯れて血の涙が出るほど激しく泣いたことを暗示しています。ちなみに「血涙・紅涙」というのは、中国の漢詩から来た言葉です。ひどく悲しいときに流す涙のことで、恋のつらさを表現すのによく用いられました。
13  「私の袖は、引き潮の時にも海中に隠れて見えない沖の石のように、誰に知られることもないでしょうが、恋の涙で乾く間もないのです。」の歌は、当時から大評判となり、以後彼女は「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになりました。
14  海藻から採る塩のことです。藻塩草という海藻に海水をかけて数日間干し、乾いたところで火で焼きます。そして水に溶かし、煮詰めて塩を精製しました。火の中で燃えて身を焦がす海藻(藻塩)の姿と、恋人を待ちこがれる少女の姿を重ねています。