百人一首クイズ4  <恋編B> 解説 Close this page

恋編Bの和歌クイズ、どうでしたか。おさらいをしておきましょう。

番号 解 説
 「逢ふ」も「見る」も、男女が逢瀬を遂げたり、契りを結ぶ意味で使われる動詞です。「あなたと契りを結んだ後のこのせつなさに比べれば、お逢いする前の悩みなど、何とも思っていないのと同じです。」という意味の歌です。
 「宇治拾遺集」には朝忠が大男の大食漢で、立つことも座ることも苦しいほど太っていたそうです。医者に相談したら「冬は湯漬け、夏は水漬けを食べれば痩せられる」と言われましたが、効果がなかったという話が残されています。
 「私のことをかわいそうにとあわれんでくれるはずの人も思い浮かばないまま、私はあなたに恋こがれながらむなしく死んでしまいそうです。」と、つれない恋人に伝えた歌です。
 「波の荒い由良(ゆら)の海峡(かいきょう)を渡る船乗りが、櫂(かい)をなくして行く先も分からずに漂うように、先が分からない私の恋であることよ。」と、流される舟の情景と、恋の道に迷う不安や危うさを重ねています。
 実方の死後も東北にとどまり、長保2年(1000)に60歳余りで亡くなりました。「風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな 」の歌が百人一首に選ばれています。
 宮中には数多くの門があり、それを警護していたのが、御垣守です。夜は恋人との逢瀬に心を燃やし、昼は相手のことが頭から離れずぬけがらのようになって思い悩む様子を、衛士がたくかがり火に例えています。
 「一度契りを結んだ今は、あなたを愛するためになるべく長く生きていたいと願うようになりました」と詠んだ義孝ですが、大流行した痘瘡(ほうそう:天然痘)にかかってわずか21歳の若さで死去しました。
 歌のことで口論となり(恋愛が原因という説もあります)、行成の冠を庭に投げ捨てた、または扇で打ち落としたといいます。任地で乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって40歳ほどで亡くなったそうですが、死後、雀になって清涼殿に飛んで来て、宮中の米を食べ荒したという伝説があります。
 女性と一夜を過ごし、自分の家へ戻って、この歌を詠みました。夜が明けてしまえば、日は必ず暮れてまた逢えると分かっていても、離れ離れで過ごす日暮れまでの時間は、果てしなく長く感じられるという思いを詠っています。
10  翌朝、盛りを過ぎた菊一輪にこの歌を託して兼家のもとに届けさせました。花の色の移ろいに、夫の心変わりをほのめかせ、「一人で待つ身のつらさが分からないでしょうね」と浮気を責める気持ちを歌にこめたのです。
11  「『いつまでも忘れない』というあなたの言葉が、遠い将来まで変わらないというのは難しいでしょう。だから、その言葉を聞いた今日を限りに命が尽きてしまえばいいのに」という歌です。
12  「もうすぐ私は死んでしまうでしょう。せめてあの世へ持っていく思い出として、今もう一度だけあなたにお逢いしたいのです。」という和泉式部の辞世ともいうべき歌です
13  父の藤原宣孝(のぶたか)は2歳の時に急死しており、父の顔を知らずに育ちました。母の紫式部は新しい夫を持とうとはせず、娘を深くいつくしみ、学問や教養を身につけさせました。母と同じように一条天皇の中宮彰子に仕えました。
14  「今晩行くよ」と約束しながらやって来なかった男のもとに、その翌朝、姉妹に代わって詠み送った歌です。「月を眺めながら一晩過ごしてしまいました」と、恋人の言葉を信じて待ち続けた女のせつなさがさりげなく伝わる表現をしています。