番号 |
解 説 |
1 |
歌の意味は、「いつの間にか春が過ぎて、夏がやってきたらしい。夏になると真っ白な衣を干すといわれている天の香具山に。」です。夏の訪れが山の緑と布の白で象徴されています。 |
2 |
これだけ明けるのが早いと、月は西の山の端まで帰ることはできないだろう。空の雲のどのあたりに宿をとったのだろうかと、空を行く旅人に見立てて月を擬人化しています。 |
3 |
ほととぎすはとても動くのが速く、振り返った瞬間、もうその姿はそこにはいなかった、という一瞬の視線の動きと、後に残った明け方の月がしみじみとした余韻を感じさせる歌です。平安時代には、ほととぎすの第一声(初音)を聴くのは風流なことだとされていました。 |
4 |
80歳で亡くなるまで生涯に6万首(現存するものは三千首ほど)もの歌を詠みました。定家の技巧的な歌風とは対照的で、わかりやすい内容を、素直にのびやかに詠む歌風でした。定家とはお互いの歌を認め合う仲で、終生変わらぬ友だちでした。 |
5 |
平安美人の条件とは、色白の肌と、長くて豊かな黒髪でした。絵巻物に描かれた美人の顔立ちは、下ぶくれの顔に細い目、低く小さな鼻のようです。 |
6 |
新春に若菜を食べると長生きする、と信じられてきました。春の七草はセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ(カブ)、スズシロ(ダイコン)です。光孝天皇が若い頃、大切な人の健康を祈って春の野草を贈った時に添えた歌です。 |
7 |
昔は「花」と言えば「桜」を指しました。百人一首には六首の桜の花の歌があります。友則の歌は、「こんなにのどかな春の一日なのに、花びらは落ち着いた心もなく、どうしてあわただしく散っていくのか」という歌です。 |
8 |
我が国最初の日記文学「土佐日記」は、土佐守の任を終えて都に帰るときの旅の様子を一人の女性に託してひらがなで書いた日記です。任地で亡くしたわが子への思いがあふれています。 |
9 |
奈良=7、八重=8、九重=9という数字遊びのほかに、「京都」と「奈良」の対比、「現在」と「過去」の対比、「けふ」には「今日」と「京」の意味を重ね、「ここのへ」は「九重」と「宮中」の意味が重ねられています。 |
10 |
周防内侍が「枕がほしい」とつぶやくと、忠家が、「これを枕にどうぞ」と言って自分の腕を御簾の下から差し入れてきたのです。「私と一緒に一夜を明かしませんか。」とからかったのです。周防は恋の浮名が立ったら口惜しいからと歌で誘いを断りました。 |
11 |
「里に近い山の桜は散ってしまい、もう山の峰にしか残っていません。遠くの山頂に咲く桜を心ゆくまで見ていたいから、近くの山の霞よ、どうかたたないでおくれ」と呼びかけた歌です。 |
12 |
富士市のふじのくに田子の浦みなと公園には、百人一首の歌のもととなった赤人の万葉歌碑があります。「万葉集」にある「富士山を望む歌」の長歌と短歌を石柱8本に刻み、富士山型に配した立派な歌碑です。 |
13 |
中国の七夕伝説では、7月7日の七夕の夜、年に一度だけ、たくさんのかささぎが天の川に翼(つばさ)を広げて橋をかけ、織り姫の元へ彦星(ひこぼし)が渡って行けるようにしたそうです。 |
14 |
「ぞ」は強意の係助詞で、「季節の中で冬が一番」というような意味になります。他の季節よりずっと、という意味です。「山里は、他の季節よりずっと、冬になると寂しさが身にしみて感じられることだ。」と係り結びで強調しています。 |
15 |
延喜5年(905年)3月2日、宮中の蹴鞠の会で、206度も連足で蹴って一つも落とさないという活躍でした。感激した醍醐天皇から絹の褒美(ほうび)を賜ったという話が伝わっています。(「西宮記」) |
16 |
「網代」は氷魚(ひお:あゆの稚魚)をとるためのしかけです。宇治川の浅瀬に沿って、ずらりと並ぶ杭に網代をかけた風景は、冬の風物詩として知られています。夜明けとともに川霧が次第に薄らいでいき、水面に網代木の列が次々に見え始めるという、早朝の景色が見事に描かれています。 |
17 |
須磨に隠退した光源氏が「友千鳥 もろ声に鳴く 暁は ひとり寝覚めの 床もたのもし」(千鳥の群れが声を合わせて鳴く暁は、たった一人で目を覚まし寂しい寝床にいる私も、心丈夫に思われる)と詠んだのをふまえ、わびしい関守の心情を思いやって詠っています。 |