百人一首クイズ1  <秋編> 解説 Close this page

秋の和歌クイズ、どうでしたか。おさらいをしておきましょう。

番号 解 説
 天智天皇を祀って昭和1(1940)年に滋賀県大津市に建立された近江神宮は、百人一首の一首目が天智天皇の歌であることから「かるたの殿堂」として知られ、アニメ「ちはやふる」の舞台にもなりました。夏には「全国高等学校かるた選手権大会」が開催されます。境内には天智天皇の歌碑があります。
 鹿と紅葉の取り合わせは奈良の昔からの定番テーマだったようで、歌に詠まれています。秋には、雄の鹿が雌(めす)を求めて鳴くとされており、鹿の鳴き声を聞くときは、とりわけ秋が悲しく感じると作者は詠んでいます。
 習慣的に一定の言葉の前におく五音節または四音節の修飾語で、語調を整える言葉です。曲で例えるならイントロのようなもので、次に来る言葉を連想させる前置きです。百人一首に出てくる枕詞は、他に「しろたへの」「あしひきの」「ひさかたの」があります。
 漢字の「山」と「風」を組み合わせると「嵐」になります。この歌はそうした言葉遊びを取り入れながら、山を転がり落ちてくる晩秋の激しい風の様子を鮮やかにイメージさせました。
 「秋の名月を見ていると、、いろいろな想いが心に浮かび、悲しみがあふれてくる。秋が私一人だけに訪れたわけではないのだけれど。」という歌です。「秋は悲しい」という感覚が平安時代に一般化したようで、その代表的な歌です。
 菊は中国から奈良時代に輸入された花で、宮中や貴族の庭に植えられる貴重な花でした。日本人は平安初期にまず菊の漢詩を詠むようになり、「古今集」以後和歌に詠まれるようになりました。初霜と白菊の透き通るような白のイメージは幻想的です。
 風が吹いて、散り落ちた紅葉が岩の間でせき止められて重なり合い、流れきらずに集まっている様子は、まるで風が作った堰(せき)止め用の柵(しがらみ)のようですと、風を擬人化して例えています。
 平安時代はいくつもの真珠に穴を開けて緒に通して、アクセサリーとして大切にしました。風に吹き散らされて翔ぶ草の露を、真珠のネックレスの緒がほどけて飛び散った様子に例えています。
 河原左大臣は、京都の東六条、鴨川(かもがわ)のほとりに河原院という豪華な別荘を造り、評判になりました。あこがれていた陸奥(みちのく)の景色を楽しむため、屋敷の庭園を塩竃(しおがま)の浦そっくりに作りましたが、百年ほど経って荒れ果て、ひ孫にあたる安法(あんぽう)法師が住んでいました。
10  歌への強い情熱を伝えるものとして、うがいをしてから歌を詠み、手を洗ってから歌書を見たという話、錦の袋に入れていた鉋屑(かんなくず)を人に見せて、「これは有名な歌枕である長柄(ながら)の橋を作った時のものだ」と自慢した話などが知られています。                    
11  結句を「秋の夕暮」と体言止めにする手法は、「新古今集」で流行し、枯れゆくような寂寥感(せきりょうかん)を美しいとする感覚が大切にされました。その代表として有名なのが寂蓮・西行・定家の「三夕(さんせき)の歌」です。 
12  和歌・漢詩・管弦(琵琶の名手)に優れ、藤原公任と並び「三船の才」と称えられました。白河院が大堰川に遊んだ時、漢詩・和歌・管弦の船を用意して、その道の達人を乗せました。経信は管弦の船に乗り、漢詩と和歌を白河院に献上して、自分の才能をアピールしたという話が残っています。
13  興福寺の僧であった息子を維摩経(ゆいまきょう)の講師(経を読む役)に選んでほしいと、主催者の長である藤原忠通(ただみち)に頼んでいたのですが、今年も選ばれませんでした。「約束したのに、ああ、今年の秋もむなしく過ぎていくのか」という嘆きを歌にしたのです。
14  「秋風に吹かれ、たなびく雲の切れ目から、洩れてくる月の光の、なんと明るく澄みきっていることよ。」と、秋の夜空を流れていく細い雲の隙間から洩れてくる月光の澄みわたった美しさをありのままに描いています。
15  「にわか雨が通り過ぎて、その露もまだ乾いていない真木(まき:杉・ひのき・まき)の葉のあたりに、霧がほの白く立ちのぼっている秋の夕暮れであるよ」と、時の移り変わりを、「雨」「露」「霧」という自然現象の変化によってとらえています。
16  きりぎりすはこおろぎのことです。今、きりぎりすとよぶ虫は、昔は「はたおり」と呼んでしました。こおろぎが弱々しく鳴いている晩秋の肌寒い夜、独り寝る寂しさが描かれています。
17  衣を打つ砧(きぬた)の音が寒々と聞こえてくる情景です。砧は「きぬいた(衣板)」の音変化。木や石の台に置いて、布を木槌(きづち)で打って柔らかくしたり、つやを出したりする作業です。夜更けにトントンと響く音を「衣うつなり」で表現しています。