ジャンル | 言葉 | よみ | 意味・解説 | 参考 | |
遊び | 貝合わせ | かいあわせ | 左右の各組の形が珍しく美しいおもむきの貝を持ち寄って優劣を競う遊びでした。潮流で打ち上げられた貝類の色や形の美しさに当時の人々は心ひかれたようです。 1040年に行われた「斎宮貝合」では、12歳の幼い斎王を喜ばせるために、この年の春、2か月かけて斎宮寮の人々が近くの浜に出て、貝を拾い集めて準備しました。当日は左右2組にに分かれて、貝とともに二見浦や大淀(おいず)、蓬莱山(ほうらいさん)などを題材にした歌も詠みあわれました。 時代が移ると、形の優れた伊勢桑名の蛤(はまぐり)が大切にされ、貝合わせは「貝覆(かいおお)い」と呼ばれるようになりました。遊び方もトランプの神経衰弱のように、貝の内側に絵を描いたものを伏せて置き、同じ絵柄の貝を当てる遊びになりました。「伊勢物語」や「源氏物語」などの絵が描かれました。 この遊びにポルトガル伝来の「カルタ」が合体して、「歌カルタ」が生まれたのではないかといわれています。 |
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和歌の基礎知識 | 歌学 | かがく | 平安時代後半になると、「万葉集」や「古今集」など、古典和歌を研究する学問「歌学(かがく)」が盛んになりました。特に藤原顕季(あきすえ)、79番・顕輔(あきすけ)、84番・清輔(きよすけ)と三代にわたり名人が出た歌の家、六条藤家(ろくじょうとうけ)では、和歌関係の資料を集めて用語などを研究し、歌作りに活かそうとしました。、顕輔の養子となった顕昭(けんしょう)法師は、歌語の百科事典というべき「袖中抄(しゅうちゅうしょう)」全20巻をまとめました。 | ![]() |
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B 平安時代の古典 | 蜻蛉日記 | かげろうにっき | 藤原摂関家の三男・兼家と結婚した女性の日記。平安時代中期、10世紀後半に成立。作者の53番・藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)は中流貴族出身でしたが、和歌も上手く美人で、上流貴族である右大臣の三男・兼家から求婚され結婚します。しかし、兼家との子どもは道綱一人で、夫の愛が他の女性に移っていく悩みなど、20年間にわたる結婚生活の様子がつづられています。上巻の最後には、「あるかなきかのここちするかげろふの日記(にき)」(あるかないかはっきりしない思いに沈む、かげろうのようにはかない女の身の上の日記)と述べています。百人一首の「嘆きつつ」の歌の背景もくわしく描かれています。 兼家は東三条殿と呼ばれ、写真の石碑を中心として二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた広い邸に住んでいました。 |
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動物 | 鵲 | かささぎ | 「鵲(かささぎ)」はカラスの仲間ですが、カラスより一回り小さく、尾が長いのが特徴です。「カチカチ」と鳴くことから「カチガラス」という別名があり、縁起のいい鳥とされました。 中国では、七夕の日、カササギが天の川につばさを広げて橋になり、織姫が彦星の所へ行けるようにしたという伝説があります。6番・大伴家持の歌に登場します。 |
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季節と行事 | 霞 | かすみ | 霞は桜と並んで春を代表するものです。霞も霧も同じ自然現象ですので区別はありませんでしたが、平安時代からは「春霞」「秋霧」と区別されるようになりました。73番・大江匡房「高砂の」は、外山の霞に呼びかけた歌です。 | ![]() |
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有名歌人 | 歌聖 | かせい | 「歌仙(かせん)」とは、優れた歌を詠む人のことです。中国の有名な詩人・李白(りはく)は、尊敬をこめて「詩仙(しせん)」と呼ばれましたが、それに対して日本の歌人は「歌仙」と呼びます。 「古今集」の仮名序で、35番・紀貫之が万葉歌人の3番・柿本人麻呂と4番・山部赤人を「歌の聖(ひじり)」としてほめたたえています。 「柿本人麻呂なむ歌の聖(ひじり)なりける。…また、山部赤人といふ人ありけり。歌にあやしく妙(たへ)なりけり。人麻呂は赤人が上(かみ)に立たむことかたく、赤人は人麻呂が下(しも)に立たむことかたくなむありける。」(柿本人麻呂こそは歌聖でありました。…また、山部赤人と申す者がありまして、歌にただならず優れておりました。人麻呂は赤人の上に立つことは難しく、赤人は人麻呂の下に立つことが難しかったのであります。) |
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動物 | 雁 | かり | 雁は秋にやって来て、冬を日本で過ごし、春になると北国へ帰る渡り鳥です。特にその年初めて姿を見せた雁のことを初雁(はつかり)といって、昔の人はその鳴き声を珍重しました。また、春の雁は帰雁(きがん)といいました。 33番・紀友則は、「秋風に はつかりがねぞ 聞ゆなる 誰がたまづさを かけて来つらむ」(「古今集」)と詠みました。手紙を持ち運ぶ様子をそのまま雁にあてはめて誰からの手紙を身につけてやってきたのだろうかと詠んだのです。 |
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B 平安時代の古典 | 菅家後集 | かんけこうしゅう | 平安時代の活躍した漢詩人の中で最も高い評価を得ている24番・菅原道真(すがわらみちざね)の詩文集。道真は藤原時平の告げ口によって57歳の時に大宰府権帥(だざいのごんのそち)に左遷されましたが、悲しみと望郷の思いに暮れつつ、2年後に亡くなりました。延喜3年(903)、死期を悟った道真は、大宰府で詠んだ作品を集めて詩友の紀長雄(きのはせお)に贈りました。その中でも七言律詩「不出門(もんをいでず)」は、よく知られています。 一 從 謫 落 在 柴 荊 ひとたび官職をおわれて(筑紫(つくし)に流され)粗末な家に住んで以来、 万 死 兢 兢 跼 蹐 情 万死に値する重い罪に恐れおののき、身の置きどころがない気持ちでいる。 都 府 楼 纔 看 瓦 色 (遠くに見える)太宰府の正門の高楼は、瓦の色をわずかに眺めるだけであり 観 音 寺 只 聴 鐘 声 (近くにある)観音寺は、鐘の音をただ聞くばかりである。 中 懐 好 逐 孤 雲 去 胸中の思いは、(都への思いが募り)離れ雲のようであるが、 外 物 相 逢 満 月 迎 わが身以外の世界に対しては、満月のような円満な心で接しよう。(不満の気持ちを外にださないようにしよう)。 此 地 雖 身 無 檢 繋 この地では身柄を縛られ取り調べを受けているわけではないけれど、 何 為 寸 歩 出 門 行 (左遷された身なので)どうしてわずかな距離でも門を出て行くことができようか。(いや、出はしない。) |
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遊び | 管弦 | かんげん | 琵琶(びわ)・笙(しょう)・横笛(よこぶえ)・琴(こと)・篳篥(ひちりき)などを演奏して楽しみました。和歌や書道と並んで、楽器の演奏は大切な貴族のたしなみでした。宮中では多くの行事のたびに、雅楽(ががく)が演奏されていました。 【琵琶(びわ)】 琵琶は7、8世紀頃、中国から日本に入ってきました。正倉院の宝物として伝来当時の琵琶が遺されています。弓を使わず、半開の扇またはイチョウの葉の形に似た撥(ばち)で弦(げん)をはじいて音を出すのが特徴です。逢坂の関近くに庵を結んだ琵琶の名手ということで伝説になっている10番・蝉丸をはじめ、43番・権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)も琵琶の名手で琵琶中納言と呼ばれました。 【琴(こと)】 34番・藤原興風、36番・清原深養父は琴の名手として有名です。 【笙(しょう)】 奈良時代に雅楽とともに伝わってきたと考えられています。長さの違う竹の細い管を17本たばねて、木製のおわんのようなものに円形状に差しこんだ管楽器です。ハーモニカのように、はく息と、吸う息の両方を使って吹きます。湿気に弱い楽器なので、炭火で常に乾燥させていなくてはなりません。44番・中納言敦忠は笙の名手でした。「しょうがない」は「笙がなければ雅楽が演奏できない」という意味からきているという説があります。 |
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信仰 | 観音信仰 | かんのんしんこう | 奈良県桜井市初瀬(はつせ)の長谷寺、滋賀県大津市の石山寺は「観音信仰(かんのんしんこう)」の霊場として多くの参拝者を集め栄えました。 初瀬にある長谷寺の十一面観音は霊験あらたかで、現世の欲望がかなえられるといわれ、都から多くの人が訪れました。特に恋の願いをきき届けてくれると女性の信仰を集めました。74番・源俊頼は「うかりける」の歌に初瀬を詠んでいます。 |
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衣服 | 冠 | かんむり | →烏帽子(えぼし)・冠 | ![]() |
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植物 | 菊 | きく | 秋に咲く花は、平安時代に入ってから盛んに歌に詠まれるようになりました。菊は奈良時代に唐(中国)から輸入された花で、「延命草(えんめいそう)」と呼ばれ、酒にして飲むと、長生きの効果があるといわれていました。宮中や貴族の庭に植えられ、鑑賞される貴重な花でした。色も白菊以外はありません。日本人は平安初期にまず菊の漢詩を詠むようになり、「古今集」以後和歌に詠まれるようになりました。29番・凡河内躬恒「心あてに」には白菊が詠まれています。 | ![]() |
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金塊和歌集 | きんかいわかしゅう | 鎌倉幕府3代将軍、右大臣の93番・源実朝の家集。「金」は鎌倉幕府の鎌の偏をとって鎌倉の地を、「槐」は「大臣」を意味します。663首の歌が収められています。春・夏・秋・冬・恋・雑に部類して収めています。 その作風は、ほとんどが古今・新古今風の、穏やかで上品なものですが、その中に、鎌倉の地で生まれ育った独自の感性で万葉風の力強くおおらかな歌があり、高く評価されています。 |
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遊び | 蹴鞠 | けまり | 貴族のボール遊びで、数人が革沓(かわくつ)を履いて、鹿の革で作った鞠(まり)を落とさないように蹴ってパスするというゲームです。 蹴鞠の庭に植える木を「かかり」といい、東北に桜・東南に柳(やなぎ)・西南に楓(かえで)・西北に松と、四季を表す4本の木を四隅に植えてその中で遊びました。 31番・坂上是則は蹴鞠の名人でした。延喜5年(905年)3月2日、宮中の蹴鞠の会で、206度も連足で蹴って一つも落とさないという活躍で、感激した醍醐天皇から絹の褒美を賜ったという話が伝わっています。 また、94番・藤原雅経は「飛鳥井流」という蹴鞠の流派を興した人で、鎌倉に下向し、蹴鞠道の普及に努めた結果、将軍・執権を始め、多くの鎌倉武士たちが蹴鞠に熱中し、弟子入りしました。99番・後鳥羽院をはじめ、源頼朝や二代将軍頼家の蹴鞠の師となりました。 |
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B 平安時代の古典 | 源氏物語 | げんじものがたり | 平安時代の11世紀初頭に成立した物語。作者は57番・紫式部。 ①光源氏が多くの女性との恋愛関係を通して栄華への道を歩み、六条院を築き、准太上天皇になるまでを描く。 ②六条院に女三宮が降嫁したことによる光源氏や妻の紫の上の苦悩を描く。 ③光源氏亡き後、女三宮と柏木の不義の子・薫(かおる)と宇治の姫君との恋を描く。 の3部からなります。 平安末期以降に大流行した「源氏物語」ですが、百人一首との関係が深いのです。97番・藤原定家は百人一首を選ぶ際に「源氏物語」を思い浮かべながら、歌や人を選んだと言われています。20番・元良親王の歌のように「源氏物語」に直接引用されている歌だけでなく、「源氏物語」の光源氏のモデルと思われる14番・河原左大臣、16番・在原行平、15番・光孝天皇、51番・藤原実方などの歌や、「源氏物語」の舞台となっている須磨、宇治、初瀬などの場所を詠んだ歌が選ばれています。 定家の父である83番・藤原俊成は「源氏見ざる歌詠みは遺恨(いこん)の事なり」と言いましたが、「新古今集」の歌人たちは「源氏物語」から創作上のヒントを得ていました。 写真は住吉大社近くにある「源氏物語」の記念碑です。澪標(みをつくし)の巻には、光源氏の住吉詣(すみよしもうで)の華やかな行列の様子と、参詣もせず船で立ち去る明石上が描かれています。ここでは、20番・元良親王の「わびぬれば」の歌をふまえた贈答歌によって二人は心を通わせるのです。 |
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外交 | 遣唐使 | けんとうし | 中国の優れた文化を取り入れるために、7世紀から9世紀にかけて10数回にわたって日本から唐に行かせた人を「遣唐使(けんとうし)」といいました。役人の他に、多くの留学生・留学僧が学問や仏教などを学び、日本社会のしくみや文化の発展につながりました。7番・安倍仲麿は留学生、11番・参議篁は遣唐副使でした。1回に2~4せきが船団を組み、多い時には500人~600人が、難波津(なにわづ:大阪港)から唐に渡りましたが、約40の遣唐使船のうち約12せきの船がこわれたり、沈んだりしました。 | ![]() |
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C 鎌倉時代の古典 | 源平盛衰記 | げんぺいせいすいき・げんぺいじょうすいき | 鎌倉中期から後期の軍記物語、48巻。作者・成立年代とも不明。「平家物語」をもとに増補改修したらしく、「平家物語」の数多い異本の一つとみられます。 筋に大差はありませんが、源氏関係の記事、仏教説話、中国故事などを多く取り込んでいて内容は豊富です。「平家物語」が琵琶法師の語り物であるのに対して、これは読み物風で、歴史を詳しく再現しようとする傾向が強く、文体はやや流麗さを欠きます。 92番・二条院讃岐の父、頼政の鵺(ぬえ)退治の話も載っています。射落とした鵺の血が付いた矢じりを洗ったという伝説の池が二条公園にあります。公園案内板の鵺の絵。「源平盛衰記」では、背が虎、足が狸、尾は狐と描かれています。 |
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歌集 | 建保名所百首 | けんぼうめいしょひゃくしゅ | 建保3年(1215年)10月24日、順徳天皇の主催で行われた内裏名所百首。全国の名所百か所を詠んだ1200首を収めた和歌集です。写真の歌碑「ちる波は春のいろにぞ桜あさのをふの浦風いまもふくらん」は、「建保名所百首」(詠人しらず)におさめられた「生浦伊勢国」12首の内の一首です。「おだやかに麻浦の浦に吹く風は、波ものどかな春の小波にかえて、いまも吹いているであろう」という情景を詠んだものです。三重県鳥羽市の鳥羽商工会議所のエコミュージアム事業の一環として、浦村まちづくり実行委員会によって建てられたものです。 | ![]() |
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遊び | 碁・盤双六 | ご・ばんすごろく | 平安時代を代表する室内での遊びは、中国から伝わった「碁(ご)」です。黒と白の石で勝負する遊びで、現代までルールも道具も伝わっています。 「盤双六(ばんすごろく)」はインドから中国・朝鮮半島を経て日本に伝わりました。向かい合う12個ずつの長方形のますめで、白黒15個のコマをさいころの目の数で相手の陣地に移動させて競い合う遊びです。2番・持統天皇の時代から賭け事に使われ何度も禁止令が出されたほど、貴族から庶民まで親しまれました。 当時の熱中ぶりが文学作品にも描かれています。62番・清少納言の「枕草子」には「きよげなる男の双六を日一日うちて、なおあかぬにや、みじかき燈台に火をともして」とあり、「大鏡」には藤原道長も双六ファンで徹夜で遊んだことが記されています。 |
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衣服 | 香 | こう | お気に入りの香を衣服に焚きしめていたので、現代人より匂いには敏感でした。当時は風呂に入る習慣がなかったので、体臭を隠すために服を着る前には必ず香を炊いて、その煙をたきつけていました。文学作品に「移り香」や「追ひ風用意」という嗅覚(きゅうかく:におい)に関係する語多く出てくるのが特徴です。 貴族たちは着物を伏鱗(ふせご)にかぶせて香りを染み込ませるだけでなく、恋文や扇にも香りを移して、自分らしさを演出しました。 |
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B 平安時代の古典 | 江談抄 | ごうだんしょう | 平安後期の説話集、6巻。73番・大江匡房(まさふさ)の談話を藤原 実兼(さねかね)らが筆録したものだと伝えられています。匡房の晩年における談話が中心ですが、かなり早い時期の言談、匡房没後のまた聞きの筆録も加わっていて、12世紀初頭の成立と考えられます。 有職故実・詩文などの記事が多いのですが、貴族社会に取材した説話もあり、その当時の大学者であった匡房の姿を知ることができる資料と言えます。「今昔物語集」などへの影響も見逃せません。 |
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C 鎌倉時代の古典 | 古今著聞集 | ここんちょもんしゅう | 鎌倉中期の説話集、20巻。橘成季(たちばななりすえ)編。建長6年(1254)成立。 序において、「宇治大納言物語」「江談抄」を継承するものと位置付けています。平安中期から鎌倉初期までの日本の説話約700話を収めています。政道忠臣、文学、和歌など30編に分け、年代順に配列されています。王朝貴族に関する説話、公卿(くぎょう)日記などの記事が多いのですが、著者が直接見聞きしたとみられる説話も多く、鎌倉時代に入ってからの説話が3分の1を占め、当時の社会や風俗を伝える話を集めています. 和歌編87話の中に、歌徳説話がほぼ20話あります。詠歌が神仏に受け入れられて、難破をのがれたり、雨を降らせたり、重病が直ったりなど、さまざまな神仏の功徳(くどく)が述べられています。また、20話のうち、13話までが「十訓抄」からとられています。59番・赤染衛門の場合は、詠歌を住吉大社(写真)に捧げたところ、夢に白髪の老人があらわれて病が治ったとあります。 |
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C 鎌倉時代の古典 | 古事談 | こじだん | 鎌倉初期の説話集、6巻。編者は源顕兼(あきかね)で、1215年直前の成立かといわれています。 17番・在原業平と伊勢斎宮との密通事件とその事後処理など、貴族社会や政治にまつわる秘話や裏話など、450余りの説話が書かれていて、王朝社会の隠された一面を印象的に物語っています。その多くが日記や歴史書、故実書から抜粋、抄出されたものです。「続古事談」や「宇治拾遺物語」など後の説話集に多くの素材を提供しています。 |
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C 鎌倉時代の古典 | 後鳥羽院御口伝 | ごとばいんこうでん | 鎌倉前期の歌論書。筆者は99番・後鳥羽院。承久(じょうきゅう)の乱(1221)を境に、後鳥羽院の隠岐(おき)での作とする説と、それ以前とする説があります。 初心者のために作歌の心得7か条と、71番・源経信(つねのぶ)以下当代歌人15人の歌風について記しています。なかでも97番・藤原定家と、86番・西行法師に対する評が注目されます。定家評は量的にも多く、批判的な言葉が多く、後鳥羽院と定家との関係、2人の和歌観の違いを知るうえで重要です。女流歌人としては89番・式子内親王と丹後(たんご)を取り上げています。 なお、後鳥羽院の離宮跡に建てられた水無瀬神宮には、院の代表歌の絵馬があります。 |
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和歌の基礎知識 | 詞書 | ことばがき | その歌を作った日時、場所、贈った相手、詠んだきっかけなどを述べた前書き。「題詞(だいし)」ともいいます。「万葉集」では漢文で記しましたが、「古今集」からは、ほとんど和文です。(写真は35番・紀貫之のもの) 比較的短いものが多いのですが、長い詞書もあります。物語的に発展して、「伊勢物語」のような歌物語になる場合もありました。 |
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季節と行事 | 暦 | こよみ | 日本人は昔から月を好み、月とのかかわりを大切にして暮らしてきました。現在の「太陽暦」に対して、平安時代は月の満ち欠けをもとに1カ月を30日、1年を360日と決める「太陰暦(たいいんれき)」を使っていました。 「旧暦」というのがそれです。旧暦では1~3月を春、4~6月を夏(今の5月から7月)、7~9月を秋(今の8月から10月)、10~12月を冬、というように3カ月ごとで区切っていました。また、今の1年365日である太陽暦に比べ、1カ月ほど月日がずれています。「太陰暦」は季節や自然、動植物などとの関係が深く、農業や漁業はこれを基準として行われています。 |
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C 鎌倉時代の古典 | 古来風躰抄 | こらいふうていしょう | 83番・藤原俊成(定家の父)の歌論書。俊成は歌道家である御子左家(みこひだりけ)を確立し、勅撰集「千載和歌集」の撰者となった大歌人です。初撰本は俊成84歳の建久8年(1197)に成立。皇族(89番・式子内親王か守覚法親王と推定)の依頼によって執筆し献上されました。 昔から今に至る歌の姿を示して、そのよしあしを読者に教える目的で書かれています。俊成は歌の理想を、細かい所まで技巧を凝らして作り上げたものでなくても、声を出して読みあげたり、朗詠(ろうえい)した時に、「何となく艶(えん)にもあはれにも聞ゆる事のあるなるべし」と述べています。 |
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季節と行事 | 更衣 | ころもがえ | 衣がえは、昔は「更衣(ころもがえ)」と書きました。この習慣は、平安時代の宮中で始まり、次第に年中行事として定着しました。 旧暦の4月1日(今の5月)からは、薄手(うすで)の涼しい夏装束に、10月1日(今の11月)からは裏地をつけた暖かい冬装束にかえました。その時には、着物に虫がつかないように風に当てて手入れをしました。これを「虫干し」といいます。 また、神も更衣をするものとして、京都の下鴨神社(写真)では、立夏・立冬の日に、更衣(ころもがえ)祭りが行われます。伊勢神宮では神衣祭(かんみそのまつり)が行われます。 |
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B 平安時代の古典 | 今昔物語集 | こんじゃくものがたりしゅう | インド・中国・日本(ほんちょう)の地域別に、伝承された千話以上の話を体系的に集めた説話集、31巻。1120年以降に成立したものと推定されています。編者は、源隆国(みなもとのたかくに)をはじめとして、学者として名を知られた73番・大江匡房(おおえのまさふさ)、鳥羽僧正など、さまざまな名前が挙がってきましたが、どれも確証がなく不明です。 本朝部は最も長く、仏教説話、世俗説話、源氏と平氏を中心とした合戦譚、怪異談、笑話など、さまざまな主題の巻があります。 巻第24は、芸能をたたえる巻で、名人上手をめぐるエピソードが語られています。和歌については、「〇〇が……にて和歌を読むこと」というタイトルで、43番・敦忠、55番・公任、17番・業平、51番・実方、52番・道信、50番・義孝、35番・貫之、7番・仲麿、11番・篁、19番・伊勢、59番・赤染衛門、20番・元良親王といった歌人たちの話が続いています。土佐で我が子を亡くした貫之の悲しみの和歌など、歌人の心情を知ることができます。 |
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配流 | 近流 | こんる | →配流・近流・中流・遠流 | ![]() |