もっと知りたい!平安時代③
古典Ⅰ <奈良・平安>]

もっと知りたい!    平安時代  奈良 平安
まんようしゅう いずみしきぶにっき
いせものがたり
いまかがみ
えいがものがたり
おおかがみ
かげろうにっき
かんけこうしゅう
げんじものがたり
ごうだんしょう
こんじゃくものがたりしゅう
たかむらものがたり

とさにっき
としよりずいのう
にほんさんだいじつろく
にほんもんとくてんのうじつろく
ふくろぞうし
まくらのそうし
むらさきしきぶにっき
やまとものがたり
わかんろうえいしゅう



古典Ⅰ;
分類 ことば よみ 意味・解説 参考
奈良 万葉集 まんようしゅう  日本に現存する最古の歌集。飛鳥時代から奈良時代中期までの4500首の歌が収録されています。ひらがな・カタカナのない時代なので、漢字(万葉仮名)のみで表記され、力強くおおらかな歌風です。「百人一首」にも採られている歌人としては、1番・天智天皇2番・持統天皇3番・柿本人麻呂4番・山部赤人、そして「万葉集」の撰者とされる6番・大伴家持です。
 写真は天智天皇を祀った近江神宮内にある人麻呂の歌碑です。万葉仮名で書かれています。「淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努爾 古所念」(近江の海の 夕波千鳥よ お前が鳴くと 心もうちひしがれて 昔がしのばれる)
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和泉式部日記 いずみしきぶにっき  平安中期の日記。別名「和泉式部物語」。帥宮(そちのみや)の死後1年の服喪期間に思い立ち、1008年頃に成立したもののと思われます。筆者は藤原俊成など後人説もありますが、家集にある和歌との関係や日記本文からみて56番・和泉式部本人である可能性が高いとされています。冷泉天皇の皇子帥宮(そちのみや:敦道親王)との恋愛の経緯を歌物語風につづったもので、140首余りの贈答歌のやりとりがあります。故人となった為尊(ためたか)親王の弟である帥宮から橘(たちばな)の花が届けられてから、宮の邸に迎え入れられるまでの10か月間のことが記されています。
 写真は和泉式部が参詣した貴船神社です。
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伊勢物語 いせものがたり  平安時代の歌物語。成立年代は不明、10世紀後半頃に現在の形になったと考えられます。17番・在原業平の歌を持つ章段と、それ以外の章段に大別できますが、主人公「昔男(むかしおとこ)」の一代記として読むこともできます。成立過程で業平の子孫にあたる在原氏の人々や、35番・紀貫之が関与した可能性もあります。中心となる業平の歌を持つ章段には、①二条后(にじょうのきさき)との恋②東下り③伊勢斎宮との恋④惟喬親王(これたかのみこ)との交友の4つの柱があります。 上へ
今鏡 いまかがみ  平安末期の歴史物語、10巻。作者は藤原為経(ためつね)説が有力です。「小鏡」「続世継」とも言います。1170年に成立。
 
「大鏡」の後を継ぐ書として、語り手の大宅世継(おおやけのよつぎ)の孫で150歳をこえる老女が「大鏡」以後の約150年間の天皇、藤原氏、皇族などの動きを語るという形です。宮廷貴族の華やかな行事や歌壇の動向に関する記事が多いです。各巻の節ごとに、「栄華物語」風の優雅なタイトルがつけられています。当時、危機が迫っていた王朝とその文化を、確かに存在するものとして描こうとしました。
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栄花物語 えいがものがたり  平安時代後半に成立した、最初の歴史物語、全40巻。宇多天皇から堀河天皇までの約200年間の歴史を年次を追って記しています。最初の30巻は11世紀前半に59番・赤染衛門によって書かれたと考えられています。文体や構成の工夫には、彼女の愛読書であった「源氏物語」の影響が指摘されています。後半10巻の作者は不明です。藤原道長の生涯を光源氏になぞらえながら、その栄華と、周辺の人々の喜怒哀楽が描かれていきます。有名な巻五「浦々の別」には54番・儀同三司母(貴子)、巻二十七「ころものたま」には56番・和泉式部の姿が描かれています。
 晩年出家した赤染衛門ですが、夫に同行した愛知県稲沢市に歌碑公園(衣かけの松跡)があります。
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大鏡 おおかがみ  平安後期の歴史物語。作者は不明。雨林院(うりんいん)の菩提講(ぼだいこう)で老翁二人と老女が出会い、そこに若い侍が加わり、講師(こうじ)の到着を待つ間、歴史語りをする形で、文徳天皇から後一条天皇までの14代176年間の歴史が描かれています。藤原道長が栄華を獲得するまでの過程を描くことが目的で、歴代の帝や后、藤原氏の大臣たちの逸話による、平安時代の摂関政治史といえます。
 
56番・和泉式部が敦道親王と牛車に同乗して賀茂の祭を見物したこと、53番・道綱母が兼家の訪れに家の門を開けなかったことなど、さまざまなエピソードが語られています。写真の地(道綱母旧居址)で「蜻蛉日記」は書かれました。
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蜻蛉日記 かげろうにっき  藤原摂関家の三男・兼家と結婚した女性の日記平安時代中期、10世紀後半に成立。作者の53番・藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)は中流貴族出身でしたが、和歌も上手く美人で、上流貴族である右大臣の三男・兼家から求婚され結婚します。しかし、兼家との子どもは道綱一人で、夫の愛が他の女性に移っていく悩みなど、20年間にわたる結婚生活の様子がつづられています。上巻の最後には、「あるかなきかのここちするかげろふの日記(にき)」(あるかないかはっきりしない思いに沈む、かげろうのようにはかない女の身の上の日記)と述べています。百人一首の「嘆きつつ」の歌の背景もくわしく描かれています。
 兼家は
東三条殿と呼ばれ、写真の石碑を中心として二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた広い邸に住んでいました。
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菅家後集 かんけこうしゅう  平安時代の活躍した漢詩人の中で最も高い評価を得ている24番・菅原道真(すがわらみちざね)の詩文集。道真は藤原時平の告げ口によって57歳の時に大宰府権帥(だざいのごんのそち)に左遷されましたが、悲しみと望郷の思いに暮れつつ、2年後に亡くなりました。延喜3年(903)、死期を悟った道真は、大宰府で詠んだ作品を集めて詩友の紀長雄(きのはせお)に贈りました。その中でも七言律詩「不出門(もんをいでず)」は、よく知られています。
 一 從 謫 落 在 柴 荊  ひとたび官職をおわれて(筑紫(つくし)に流され)粗末な家に住んで以来、
 万 死 兢 兢 跼 蹐 情 万死に値する重い罪に恐れおののき,身の置きどころがない気持ちでいる。
 都 府 楼 纔 看 瓦 色 (遠くに見える)太宰府の正門の高楼は,瓦の色をわずかに眺めるだけであり
 観 音 寺 只 聴 鐘 声 (近くにある)観音寺は、鐘の音をただ聞くばかりである。
 中 懐 好 逐 孤 雲 去 胸中の思いは、(都への思いが募り)離れ雲のようであるが、
 外 物 相 逢 満 月 迎  わが身以外の世界に対しては、満月のような円満な心で接しよう。(不満の気持ちを外にださないようにしよう)。
 此 地 雖 身 無 檢 繋  この地では身柄を縛られ取り調べを受けているわけではないけれど、
 何 為 寸 歩 出 門 行 (左遷された身なので)どうしてわずかな距離でも門を出て行くことができようか。(いや、出はしない。)
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源氏物語 げんじものがたり  平安時代の11世紀初頭に成立した物語。作者は57番・紫式部
 ①光源氏が多くの女性との恋愛関係を通して栄華への道を歩み、六条院を築き、准太上天皇になるまでを描く。
 ②六条院に女三宮が降嫁したことによる光源氏や妻の紫の上の苦悩を描く。
 ③光源氏亡き後、女三宮と柏木の不義の子・薫(かおる)と宇治の姫君との恋を描く。

の3部からなります。
 平安末期以降に大流行した「
源氏物語」ですが、百人一首との関係が深いのです。97番・藤原定家は百人一首を選ぶ際に「源氏物語」を思い浮かべながら、歌や人を選んだと言われています。20番・元良親王の歌のように「源氏物語」に直接引用されている歌だけでなく、「源氏物語」の光源氏のモデルと思われる14番・河原左大臣、16番・在原行平、15番・光孝天皇、51番・藤原実方などの歌や、「源氏物語」の舞台となっている須磨、宇治、初瀬などの場所を詠んだ歌が選ばれています。
 定家の父である
83番・藤原俊成は「源氏見ざる歌詠みは遺恨(いこん)の事なり」と言いましたが、「新古今集」の歌人たちは「源氏物語」から創作上のヒントを得ていました。
 写真は住吉大社近くにある「源氏物語」の記念碑です。澪標(みをつくし)の巻には、光源氏の住吉詣(すみよしもうで)の華やかな行列の様子と、参詣もせず船で立ち去る明石上が描かれています。ここでは、
20番・元良親王の「わびぬれば」の歌をふまえた贈答歌によって二人は心を通わせるのです。
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江談抄 ごうだんしょう  平安後期の説話集、6巻。73番・大江匡房(まさふさ)の談話を藤原 実兼(さねかね)らが筆録したものだと伝えられています。匡房の晩年における談話が中心ですが、かなり早い時期の言談、匡房没後のまた聞きの筆録も加わっていて、12世紀初頭の成立と考えられます。有職故実・詩文などの記事が多いのですが、貴族社会に取材した説話もあり、その当時の大学者であった匡房の姿を知ることができる資料と言えます。「今昔物語集」などへの影響も見逃せません。 上へ
今昔物語集 こんじゃくものがたりしゅう  インド・中国・日本(ほんちょう)の地域別に、伝承された千話以上の話を体系的に集めた説話集、31巻。1120年以降に成立したものと推定されています。編者は、源隆国(みなもとのたかくに)をはじめとして、学者として名を知られた73番・大江匡房(おおえのまさふさ)鳥羽僧正など、さまざまな名前が挙がってきましたが、どれも確証がなく不明です。本朝部は最も長く、仏教説話、世俗説話、源氏と平氏を中心とした合戦譚、怪異談、笑話など、さまざまな主題の巻があります。
 巻第24は、芸能をたたえる巻で、名人上手をめぐるエピソードが語られています。和歌については、「〇〇が……にて和歌を読むこと」というタイトルで、43番・敦忠、55番・公任、17番・業平、51番・実方、52番・道信、50番・義孝、35番・貫之、7番・仲麿、11番・篁、19番・伊勢、59番・赤染衛門、20番・元良親王といった歌人たちの話が続いています。土佐で我が子を亡くした貫之の悲しみの和歌など、歌人の心情を知ることができます。
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篁物語 たかむらものがたり  平安初期に歌人・文人として有名だった11番・小野篁を主人公とする物語。「篁日記」「小野篁集」とも呼ばれています。作者は不明。成立年代は平安中期・後期・鎌倉初期など諸説ありはっきりしません。前半は篁と異母妹との悲恋の物語、後半は右大臣の三の君と結婚して、栄達する物語です。前半は「古今集」の「妹の身まかりにける時詠みける」の歌、後半は平安中期の漢詩文集「本朝文粋(ほんちょうもんずい)」巻7の「右大臣に奉る」書状などが素材として関連が深いといわれています。 上へ
土佐日記 とさにっき  平安時代の日記。「古今集」の撰者である35番・紀貫之は、その後も歌人として活躍していましたが、晩年に土佐国司に任命されました。4年間の任期を終え都に帰るまでの2か月の船旅の記録です。
 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」と、自らの心情を女性に託して、59首の和歌を織り交ぜた仮名文でつづっています。望郷の思い、土佐で亡くした娘への思い、世間の人々への批判とともに、歌の良し悪しについての言葉もあります。
 何を目的に誰に読んでもらうために書かれたのかにはいろいろな説があります。土佐での4年間に、醍醐天皇、宇多上皇、
27番・藤原兼輔、25番・藤原定方など、貫之を引き立ててくれた有力者が亡くなっています。その人々への思いがこめられているのではという説もあります。
 写真は比叡山の裳立山(もたてやま)にある貫之の墓です。比叡山から見える琵琶湖の風景を愛した貫之の遺言によります。今も全国の人々が参詣に訪れ花を手向けています。
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俊頼髄脳 としよりずいのう  平安時代後期の歌学書。筆者は74番・源俊頼1111年~1115年間に成立したと推定されます。奥書によると、関白藤原忠実(ただざね)の命令によって、忠実の娘である高陽院(かやのいん)泰子の妃(きさき)教育のための書物として編まれたといいます。若い貴族女性が読む作歌手引書ですが、平安時代後期の人々の和歌に関する考え方を知ることができます。和歌の種類、歌病(かびょう:和歌を詠むときに避けるべき言葉遣い)、秀歌の例、和歌の技法や題詠(だいえい:あらかじめ設定された歌題に応じて詠む歌)についての解説などが豊富な例歌とともに記されています。また、さまざまな歌人たちのエピソードも書きとめられていて、説話集のようなおもしろさがあります。97番・定家が写本した「俊頼髄脳」が2006年に冷泉家で発見されました(写真)。 上へ
日本三代実録 にほんさんだいじつろく  略して「三代実録」ともいいます。「日本文徳天皇実録」のあとをうけて、清和・陽成・光孝天皇三代・30年間の正史(勅撰の歴史書)、50巻。宇多天皇の命によって寛平4年(892)に藤原時平や24番・菅原道真らが編纂を始め、延喜1年(901)に完成しました。政治・法制に関する記事が多いのが特色です。
  奈良から平安時代に、政府の修史事業の結果完成した6つの歴史書を六国史(りっこくし)といいます。
 
「日本書紀」「続日本紀 (しょくにほんぎ) 」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」です。
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日本文徳天皇実録 にほんもんとくてんのうじつろく  略して「文徳実録」ともいいます。勅撰の歴史書、10巻。文徳天皇一代・9年間の歴史の実録。藤原基経らが871年に、清和天皇の命で撰集を開始、一時中止しましたが、陽成天皇の命で再開し、879年に完成しました。人物の伝記が豊富です。
 人物の死亡記事のあとに必ずその伝記を付けるなど、人間に対する細やかな情が感じられます。
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袋草紙 ふくろぞうし  平安末期の歌学書。筆者は84番・藤原清輔「和歌故実の百科全書」というべき意欲作で、多くの資料にもとづく研究は、六条家歌学の奥義(おうぎ)を示すといえます。上下2巻。上巻は保元2~3年(1157~58)に成立し、二条天皇に献上され、下巻(「和歌合次第」「袋草子遺編」ともいう)も平治元年(1159)までに成立しています。
 上巻の内容は、歌会の作法、
「万葉集」以下の勅撰集や歌物語の事情や問題点の紹介、歌人の逸話、和歌の実例などを記しています。和歌の書き方からはじまり、歌会で歌がどうしても詠めない時には白紙を置いて退出するという作法まであります。名歌には返歌をせず逃げて行方をくらますとして、60番・小式部「大江山」の歌に64番・定頼が袖をふり払って逃げた例が挙げられています。
 下巻の内容は、歌合の進行や撰者・判者の作法、判詞、和歌に対する非難の先例などについて記しています。判者の心得ておくべき要点の項目には、天徳内裏歌合の
40番・兼盛41番・忠見の判定の様子が語られています。和歌説話は「十訓抄」の資料になったり、「清輔雑談集」として刊行されるなど、説話集としても広く読まれました。
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枕草子 まくらのそうし  平安時代中期の1000年頃、一条天皇中宮定子(ていし)に仕える女房、62番・清少納言の随筆。約300の章段から成り、
 ①「~もの」「~は」で始まる章段、
 ②日常生活で出会った四季折々の風物や人事への感想を述べた章段、
 ③定子、定子の父・道隆、定子の兄弟伊周・隆家ら、中関白家の人々の華やかで教養あふれる姿が描かれた章段

の3つに分かれています。
55番・藤原公任や、藤原行成、51番・藤原実方など、当時の一流文化人について描いた章段は魅力的です。
 百人一首の「夜をこめて」のエピソードも詳しく記されています。「その文は、殿上人みな見てしは」(あなたの手紙は、殿上人がみな見てしまったよ)と、行成が清少納言の歌をみんなに披露(ひろう)した後日談も語られています。写真の枇杷殿跡(びわどのあと:京都御苑内)は、清少納言や紫式部が仕えた邸跡です。
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紫式部日記 むらさきしきぶにっき 「源氏物語」の作者、57番・紫式部の日記。11世紀初頭に成立。一条天皇の中宮となった藤原彰子(しょうし:道長の娘)に仕えた日々の記録が中心ですが、華やかな宮廷の様子だけでなく、夫を亡くした孤独な思い、周囲の女房たちの人物批判もあります。56番・和泉式部59番・赤染衛門62番・清少納言を評した文章は、率直な書きぶりになっています。また、この頃には「源氏物語」が宮廷の人々に広まり、女性だけでなく男性貴族にも読まれたことがうかがえます。
 写真は石山寺光堂そばの紫式部像です。
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大和物語 やまとものがたり  平安時代の歌物語作者不明。さまざまな階層の人の物語、全173段から成ります。140段までは10世紀半ばの貴族社会に広まっていた歌にまつわるうわさ話を収めています。宇多上皇周辺の人々が多く、27番・堤中納言藤原兼輔28番・源宗于29番・凡河内躬恒20番・元良親王などの歌を実名とともに語っています。また、「苔の衣」の段では、12番・僧遍昭の出家のいきさつについてくわしく語られています。
 それ以降の段は古くから語り伝えられた昔物語で、名もない人々の悲しみと喜びが語られています。帝に恋をして猿沢(さるさわ)の池に身を投げた采女(うねめ)に、3番・柿本人麻呂が歌を詠んでいます。池のほとりには「大和物語」の案内板があります。
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和漢朗詠集 わかんろうえいしゅう  55番・藤原公任が朗詠のために選んだ、漢詩と和歌の名歌作品集です。寛弘9年(1012)頃に成立。白居易(はくきょい)、菅原文時(すがわらのふみとき)、24番・菅原道真(すがわらのみちざね)などの中国・日本の漢詩文588首、35番・紀貫之などの和歌216首が収められています。後世の文学にも大きな影響を与え、江戸時代には書道の手本としても親しまれました。
 日本人の美意識の一つとして「雪月花」という言葉があります。四季折々の風景を雪・月・花に代表させた一語です。この言葉を文学作品に最初に用いたのは白居易で、巻下「交友」に「琴詩酒友皆抛我 雪月花時最憶君」(琴を弾き、詩を作り、ともに酒を酌み交わした仲間は、遠い存在になってしまった。だから、雪の朝や月の夜、花の季節をいっしょに楽しんだ君のことが懐かしく思い出される。)とあります。王朝文学が白居易(右絵図)から吸収したものは大きかったといえます。
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