もっと知りたい!平安時代①
遊び 衣服 外交 歌集

もっと知りたい!    平安時代 遊び  衣服  外交  歌集 
かいあわせ
かんげん
けまり
ご・ばんすごろく
ばんすごろく
ふなあそび
ゆみ
えぼし・かんむり
おうぎ
かんむり
こう
じょせいのきもの
だんせいのきもの
けんとうし きんかいわかしゅう
けんぽうめいしょひゃくしゅ
さんかしゅう
さんだいしゅう
しかしゅう
ちょくせんわかしゅう・しかしゅう
はちだいしょう
ろっかしゅう



分類 ことば よみ 意味・解説 参考
遊び 貝合わせ かいあわせ  左右の各組の形が珍しく美しいおもむきの貝を持ち寄って優劣を競う遊びでした。潮流で打ち上げられた貝類の色や形の美しさに当時の人々は心ひかれたようです。
 1040年に行われた「斎宮貝合」では、12歳の幼い斎王を喜ばせるために、この年の春、2か月かけて斎宮寮の人々が近くの浜に出て、貝を拾い集めて準備しました。当日は左右2組にに分かれて、貝とともに二見浦や大淀(おいず)、蓬莱山(ほうらいさん)などを題材にした歌も詠みあわれました。
 時代が移ると、形の優れた伊勢桑名の蛤(はまぐり)が大切にされ、貝合わせは「貝覆(かいおお)い」と呼ばれるようになりました。遊び方もトランプの神経衰弱のように、貝の内側に絵を描いたものを伏せて置き、同じ絵柄の貝を当てる遊びになりました。「伊勢物語」「源氏物語」などの絵が描かれました。
 この遊びにポルトガル伝来の「カルタ」が合体して、「歌カルタ」が生まれたのではないかといわれています。
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管弦 かんげん  琵琶(びわ)・笙(しょう)・横笛(よこぶえ)・琴(こと)・篳篥(ひちりき)などを演奏して楽しみました。和歌や書道と並んで、楽器の演奏は大切な貴族のたしなみでした。宮中では多くの行事のたびに、雅楽(ががく)が演奏されていました。                              【琵琶(びわ)】
琵琶は7、8世紀頃、中国から日本に入ってきました。正倉院の宝物として伝来当時の琵琶が遺されています。弓を使わず、半開の扇またはイチョウの葉の形に似た撥(ばち)で弦(げん)をはじいて音を出すのが特徴です。逢坂の関近くに庵を結んだ琵琶の名手ということで伝説になっている10番・蝉丸をはじめ、43番・権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)も琵琶の名手で琵琶中納言と呼ばれました。
 【琴(こと)】
34番・藤原興風36番・清原深養父は琴の名手として有名です。
 【笙(しょう)】
奈良時代に雅楽とともに伝わってきたと考えられています。長さの違う竹の細い管を17本たばねて、木製のおわんのようなものに円形状に差しこんだ管楽器です。ハーモニカのように、はく息と、吸う息の両方を使って吹きます。湿気に弱い楽器なので、炭火で常に乾燥させていなくてはなりません。44番・中納言敦忠は笙の名手でした。「しょうがない」は「笙がなければ雅楽が演奏できない」という意味からきているという説があります。
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蹴鞠 けまり  貴族のボール遊びで、数人が革沓(かわくつ)を履いて、鹿の革で作った鞠(まり)を落とさないように蹴ってパスするというゲームです。
 蹴鞠の庭に植える木を「かかり」といい、東北に桜・東南に柳(やなぎ)・西南に楓(かえで)・西北に松と、四季を表す4本の木を四隅に植えてその中で遊びました。
 31番・坂上是則は蹴鞠の名人でした。延喜5年(905年)3月2日、宮中の蹴鞠の会で、206度も連足で蹴って一つも落とさないという活躍で、感激した醍醐天皇から絹の褒美を賜ったという話が伝わっています。
 また、94番・藤原雅経は「飛鳥井流」という蹴鞠の流派を興した人で、鎌倉に下向し、蹴鞠道の普及に努めた結果、将軍・執権を始め、多くの鎌倉武士たちが蹴鞠に熱中し、弟子入りしました。99番・後鳥羽院をはじめ、源頼朝や二代将軍頼家の蹴鞠の師となりました。
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碁・盤双六 ご・ばんすごろく  平安時代を代表する室内での遊びは、中国から伝わった「碁(ご)」です。黒と白の石で勝負する遊びで、現代までルールも道具も伝わっています。
 「盤双六(ばんすごろく)」はインドから中国・朝鮮半島を経て日本に伝わりました。向かい合う12個ずつの長方形のますめで、白黒15個のコマをさいころの目の数で相手の陣地に移動させて競い合う遊びです。2番・持統天皇の時代から賭け事に使われ何度も禁止令が出されたほど、貴族から庶民まで親しまれました。
 当時の熱中ぶりが文学作品にも描かれています。62番・清少納言「枕草子」には「きよげなる男の双六を日一日うちて、なおあかぬにや、みじかき燈台に火をともして」とあり、「大鏡」には藤原道長も双六ファンで徹夜で遊んだことが記されています。
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盤双六 ばんすごろく 碁・盤双六 上へ
舟遊び ふなあそび  庭の池や川などに船を浮かべて宴会をしました。藤原道長が嵐山のふもとの大堰川(おおいがわ)で、紅葉狩(もみじがり)をした時には、船を3せき浮かべて、それぞれの船に漢詩・和歌・管弦が得意な人を乗せて大会を開き楽しんだそうです。
 どの船にも乗ることができる、漢詩・和歌・管弦とも優れている人のことを「三船(さんせん)の才」と呼ぶようになりました。55番・大納言公任71番・大納言経信「三船の才」といわれています。
 今でも、京都の車折(くるまざき)神社では、三船祭(みふねまつり)が毎年5月に行われ、船上で雅楽に合わせて舞楽などが再現されています。
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ゆみ  奈良時代には盛んに騎射(きしゃ:馬上で弓を射る)が行われていたようです。弓のうまさを比べ合いました。年中行事としても行われました。平安時代の10世紀頃、武家が登場した後は、騎射・弓術は武芸として弓馬の道といわれました。 上へ
衣服 烏帽子・冠 えぼし・かんむり  【文官束帯(ぶんかんそくたい)】
行事や宮中に行く時の役人の正装で、位によって上着の色が決められていました。
後ろに垂らしている裾(きょ:下がさねの尻)は、官位が高くなるにつれて長くなりました。大臣で約3メートルだったそうです。
笏(しゃく:細長い板)を右手に持っっています。笏は儀式の時のカンニングペーパーをはったり、大切なことをメモするものです。のちには威儀を整える道具となりました。
 【武官束帯(ぶかんそくたい)】
軍事にかかわる役人の正装で、平安時代中期になると、下級武官の着物になっていきます。           
 【直衣(のうし)】
男性貴族の普段着です。烏帽子(えぼし)をかぶり、宮中へ入る時は冠を着けました。直衣のすそからのぞかせた、重ね着の色に気をつかうのがおしゃれでした。
 【狩衣(かりぎぬ)】
もとは狩りに行く時に着るスポーティな着物で、袖口をしばるひもがついています。動きやすいので、日常の普段着として好まれるようになりました。
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おうぎ  女房は白粉で顔を真っ白に塗っていました。これは明り取りの少ない薄暗い建物の中で自分の顔を目立たせるためでした。ただし、平安時代の女性は、身分が高いほど男性から身を隠すのが普通でした。扇で顔を隠し、長い衣で指先まで隠し、声も出しません。素顔を見せるのは、自分の夫か実父くらいで、兄弟であっても大人になったら御簾(みす)越しでした。さらにその御簾の奥で、女性は扇で顔を隠しています。
 十二単姿(じゅうにひとえ)の女性が手に持っている扇は衵扇(あこめおうぎ)といいます。宮廷の女房が礼装のときに用いた檜扇 (ひおうぎ)です 。草木や人物などの絵を描き、切箔(きりはく)や砂子(すなご)などを散らしました。
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かんむり →烏帽子(えぼし)・冠 上へ
こう  お気に入りの香を衣服に焚きしめていたので、現代人より匂いには敏感でした。当時は風呂に入る習慣がなかったので、体臭を隠すために服を着る前には必ず香を炊いて、その煙をたきつけていました。文学作品に「移り香」「追ひ風用意」という嗅覚(きゅうかく:におい)に関係する語多く出てくるのが特徴です。
 貴族たちは着物を伏鱗(ふせご)にかぶせて香りを染み込ませるだけでなく、恋文や扇にも香りを移して、自分らしさを演出しました。
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女性の着物 じょせいのきもの  宮中の女性の正式ないで立ち「唐衣(からころも)」「小袿(こうちぎ)」という略装も含めて大変な重ね着をしています。
 「十二単(じゅうにひとえ)」というのは俗称ですが、小袖(こそで)、袴(はかま)から始まり、単(ひとえ)、打衣(うちぎぬ)、袿(うちかけ)、表着など10枚以上の服を重ねてきました。後ろについている屏風のようなもの「裳(も)」、尻尾のように伸びている紐を「引腰」と言いました。
 また、普段着としては「小袿(こうちき)」姿でした。
 当時の男女は、互いの衣を敷き重ねて、夜の床としました。共寝を表す「もろしく」に対して、一人寝を表す「かたしく」は和歌によく使われた言葉です。恋歌と言えば、目の前にいない相手を恋しく思うせつない歌が多いのです。
 よみ人しらずの有名な歌に「さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我を待つらむ 宇治の橋姫」(着物を敷物の上に敷き、今夜も私の訪れをさびしく待っているのだろうか、宇治の橋姫は。「古今集」)宇治の橋姫は宇治橋を守る女神です。恋人を橋姫に見立てた歌でしょうか。王朝の人々は、逢えない恋人への思いを重ねて、この伝承歌を好みました。
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男性の着物 だんせいのきもの  【文官束帯(ぶんかんそくたい)】
 行事や宮中に行く時の役人の正装で、位によって上着の色が決められていました。
 後ろに垂らしている(きょ:下がさねの尻)は、官位が高くなるにつれて長くなりました。大臣で約3メートルだったそうです。
(しゃく:細長い板)を右手に持っっています。笏は儀式の時のカンニングペーパーをはったり、大切なことをメモするものです。のちには威儀を整える道具となりました。
 【武官束帯(ぶかんそくたい)】
 軍事にかかわる役人の正装で、平安時代中期になると、下級武官の着物になっていきます。
 【直衣(のうし)】
 男性貴族の普段着です。烏帽子(えぼし)をかぶり、宮中へ入る時は冠を着けました。直衣のすそからのぞかせた、重ね着の色に気をつかうのがおしゃれでした。
 【狩衣(かりぎぬ)】
 もとは狩りに行く時に着るスポーティな着物で、袖口をしばるひもがついています。動きやすいので、日常の普段着として好まれるようになりました。
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外交 遣唐使 けんとうし  中国の優れた文化を取り入れるために、7世紀から9世紀にかけて10数回にわたって日本から唐に行かせた人を「遣唐使(けんとうし)」といいました。役人の他に、多くの留学生・留学僧が学問や仏教などを学び、日本社会のしくみや文化の発展につながりました。7番・安倍仲麿は留学生、11番・参議篁は遣唐副使でした。
 1回に2~4隻が船団を組み、多い時には500人~600人が、「難波津(なにわづ:大阪港)」から唐に渡りましたが、約40の遣唐使船のうち約12せきの船がこわれたり、沈んだりしました。
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歌集 建保名所
百首
けんぽうめいしょ
ひゃくしゅ
 建保3年(1215年)10月24日、順徳天皇の主催で行われた内裏名所百首。全国の名所百か所を詠んだ1200首を収めた和歌集です。写真の歌碑「ちる波は春のいろにぞ桜あさのをふの浦風いまもふくらん」は、「建保名所百首」(詠人しらず)におさめられた「生浦伊勢国」12首の内の一首です。「おだやかに麻浦の浦に吹く風は、波ものどかな春の小波にかえて、いまも吹いているであろう」という情景を詠んだものです。三重県鳥羽市の鳥羽商工会議所のエコミュージアム事業の一環として、浦村まちづくり実行委員会によって建てられたものです。 上へ
金塊和歌集 きんかい
わかしゅう
 鎌倉幕府3代将軍、右大臣の93番・源実朝家集「金」は鎌倉幕府の鎌の偏をとって鎌倉の地を、「槐」は「大臣」を意味します。663首の歌が収められています。春・夏・秋・冬・恋・雑に部類して収めています。
 その作風は、ほとんどが古今・新古今風の、穏やかで上品なものですが、その中に、鎌倉の地で生まれ育った独自の感性で万葉風の力強くおおらかな歌があり、高く評価されています。百人一首の歌「世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも」に詠まれた渚は、鎌倉から近い浜とすれば、由比ヶ浜や稲村ヶ崎、江ノ島近辺の可能性があります。
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山家集 さんかしゅう  平安末期の動乱期を生き抜いた旅の歌人、86番・西行法師の家集。「山里なる人の集」という意味で、晩年に自ら編纂した家集だと考えられています。
 西行は23歳で突然出家して世間の人々を驚かせましたが、当初は京都の周辺を転々としていましたが、東国の名所を巡り、帰京後は高野山を生活の場としましたが、吉野・熊野、中国・四国を巡り、治承4年(1180)頃、伊勢に転居しました。亡くなったのは河内国(かわちのくに)の広川寺です。収録歌は約2000首にのぼります。
 また、西行の最晩年のものとして伊勢神宮の内宮・外宮に奉納することを前提にした「御裳濯川歌合」「宮河歌合」があります。西行が自己の秀歌72首を選び、36番の歌合に構成したもので、自歌合の最初といわれています。「御裳濯川歌合」は83番・藤原俊成に、「宮河歌合」は97番・藤原定家に判を依頼しました。
 西行は晩年には三重県伊勢市二見地区に庵を結んだとされています。二見町茶屋の資料館「賓日館(ひんじつかん)」には、庵があったとされる安養寺跡周辺から出土した日常雑器や瓦など約50点を展示しています。西行の歌やその生涯を伝える解説パネルなども並んでいます。地元有志を中心とする実行委員会が毎年西行のイベントを開催しています。
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三代集 さんだいしゅう  平安初期の3つの勅撰和歌集「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」をいいます。勅撰集の最初の3集として、後の歌人たちから手本とすべき歌集として尊重されました。三代とは撰集を命じた醍醐・村上・花山天皇の時代の意味です。
 三代集と呼ばれる理由としては、古今集的表現が「拾遺和歌集」に至って完成したことによります。古今集的表現とは、「心」と「詞」との調和の上に体系化された歌ことばが前提となっています。歌枕と呼ばれた歌語をあやつるのが修辞であり、掛詞と比喩とがその基本になりました。「古今集」の表現技法である見立てや擬人法も比喩の一つの形態です。四季や自然に対する美意識や、日々の心情が複雑な修辞によって豊かに詠み出されました。
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私家集 しかしゅう →勅撰和歌集・私家集 上へ
勅撰和歌集
・私家集
ちょくせんわかしゅう・しかしゅう  天皇の命令によってつくられた歌集を「勅撰和歌集」といいます。「古今和歌集」(延喜5年(905年)成立)に始まり、「続古今和歌集」永享11年(1439年)成立)までの534年間で21の勅撰和歌集が編纂されました。「二十一代集」と呼ばれています。
 これに対して、個人の歌を集めた歌集を「私家集」といいます。平安時代に多く作られました。歌の作者が自分で作る場合と、後の時代の人が歌を集める場合もありました。例えば19番・伊勢「伊勢集」があります。物語風の記述は、伊勢の生涯や当時の宮中文化を知る上でも貴重です。写真は伊勢寺にある「難波潟」の歌碑です。
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八代抄 はちだいしょう  平安初期から鎌倉初期までの8つの勅撰和歌集を八代集といいます。「古今和歌集」・「後撰和歌集」・「拾遺和歌集」・「後拾遺和歌集」・「金葉和歌集」・「詞花和歌集」・「千載和歌集」・「新古今和歌集」です。
 八代集に収録されている和歌総数約9,400首から、97番・藤原定家が1,809首を選んだのが「定家八代抄」です。八代集の約5分の1を選んだお気に入り秀歌集ということになります。
 「百人一首」に選ばれている歌は、「新古今和歌集」より後に編まれた勅撰和歌集に収められている6首を除いた94首のうち、92首が「八代抄」に収められています。ただし、55番・藤原公任82番・道因法師の歌は、「八代抄」に選んだのとは別の歌を百人一首に選んでいます。
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六家集 ろっかしゅう  新古今時代(平安末期から鎌倉初期)の代表的歌人6人の私家集のことです。「りっかしゅう」ともいいます。
83番・藤原俊成「長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう)」86番・西行法師「山家集(さんかしゅう)」91番・九条良経「秋篠月清集(あきしのげっせいしゅう)」97番・藤原定家「拾遺愚草(しゅういぐそう)」95番・慈円「拾玉集(しゅうぎょくしゅう)」98番・藤原家隆「壬二集(みにしゅう:玉吟集とも)」のことです。6人とも百人一首に選ばれています。
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